アイコン 富への狂騒を生んだ「東方見聞録」の誕生

1298年 ヴェネツィアとジェノバの海戦で捕虜になったマル・コポーロは、同じ牢獄にいたルスティケロと名乗る捕虜と仲良くなった。彼は冒険物語の作者で、『アーサー王の円卓騎士物語』(またはアーサー王伝説)などを焼き直してかなりの評判をとっていた人物である。
 マルコ・ポーロの体験に興味をもったルスティケロは、ゴーストライターとして獄中の暇にまかせてポーロの言葉を書きとった。こうしてマルコ・ポーロの冒険は『世界の叙述(東方見聞録)』として世に出たのである。
しかし、すぐに『東方見聞録』が社会の評判をとったのではなく、200年後、1553年に刊行された『航海と旅行』(ラムージオ著)で紹介されたからのことである。

マルコポーロは1324年に死亡した。ヴェネチアに残されている資料によれば、彼には妻と三人の娘がいたらしい、しかし、大きな屋敷に住んでいたが暮らしぶりは質素であった。尊敬は受けていたようだが、特別な名士ではなかったようである。また、遺産も驚くものでは無かったと伝わる。


「東方見聞録」以外の記述本

中世ではアジアについて書かれたものはわずか2冊。プリニウスの『博物誌』とブルネット・ラティーニの『宝物の書』だけであった。

宣教師たちは東方を目指した
 
中世になるとローマ教会にとって布教のために東洋の宗教事情を知ることが重要になったのである。また、イスラム教徒に対抗するためにモンゴルの実情が知りたかったことも大きな要因のひとつであった。
(写真はマルコ・ポーロのキャラバン 1375年『カタラン古地図』からパリ国民文書館蔵 )


宣教師たちの記述から、
 
  フランシス会修道士のカルピニはモンゴルの暮らしや習慣を記述した。これは『歴史の鏡』(ヴァンサン・ド・ポーヴェ)に入っている。1248年に十字軍に随行したフランシスコ修道会の修道士ギョーム・ド・ルブルクの記録。他の旅行記としては『マンデヴァル卿旅行記』とフランシスコ修道会の修道士ポルデーンネのオドリコが書いた『東方紀行』(73の手写本)がある。しかしその中でも群をぬいて人々に影響を与えたのは『東方見聞録』である。

 東方見聞録は別名『この世についての四方夜話』とか、『マルコ・ポーロとアジアの不思議な物語の書』『世界の叙述』ともいわれている。『東方見聞録』には138種の写本があり、コロンブスも1438年から1485年頃に出版された1冊を持っていた。14世紀には手写本として世に出た。のちに印刷され各国語に翻訳されて世の人々に読まれたのである。

コロンブスも1438年か1485年に出版された1冊を持っていた。この本は今も「インド関係総文章館」に保存されており、コロンブス自身の366箇所の書き込みを見ることが出来る。そこには飽くなき「黄金、銀、真珠、香辛料」にたいする執着心が見られるのである。


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