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〈力道山の生涯〉 ●日本に来てからの略歴とします。 昭和15年(1940)朝鮮半島より日本に来る。二所ノ関部屋に入門する。昭和18年(1943)力道山光浩(本名 鈴木光浩)と名乗る。 昭和21年(1946.3.15)長男 義浩誕生、昭和23年(1948.9.21)次男 光雄誕生。 昭和25年(1950)西関脇 15日休業で相撲廃業する。相撲界でお世話になった新田新作氏のもとへ行き世話になる。(新田建設)昭和26年(1951)長崎県より都内中央区日本橋浜町に転籍する。同年、男兄弟2人を引き取る。同年の秋、銀座ナイトクラブ「銀馬車」でハロルド坂田と出会い、シュライナー・クラブでプロレスのトレーニングを本格的に開始する。 ●力道山デビュー戦 10月28日 昭和28年(1953)7月1日 力道山道場設立 (日本橋浪花町)以後も道場はここにあった。 ●昭和29年(1954)2月17日 シャープ兄弟来日、太平洋沿岸タッグ王座獲得。12月21日木村政彦柔道7段と「日本選手権大試合」を開く、力道山の勝利。 ●昭和30年(1955)日本橋人形町に鉄筋5階建て、延べ700坪、総工費7500万円。 同年12月に大田区池上に移る。(航空写真参照) |
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●昭和32年(1957)10月7日に東京後楽園球場にて観客3万人を集め、NWA世界ヘビー級選手権試合を「ルーテーズ」と行う、広告代理店の電通調べによれば視聴率87パーセントであった。 ●昭和35年(1960)リキ・スポーツパレスの起工。 昭和36年(1961)リキ・スポーツパレスの完成、渋谷に地上9階建ての総合スポーツ施設のはしりとなる。 ●昭和37年(1962)4月23日のWWA認定世界ヘービー級選手権リーターンマッチでテレビ放映を見た老人6人がショック死、プロレステレビ中継規正のきっかけとなる。 昭和38年(1963)6月5日 結婚 ホテルオークラ 12月8日赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で暴力団に刺される。12月15日午後10時35分 死亡 享年39才。(後に医療ミスと判明) ●12月20日 池上本門寺にて葬儀 戒名 大光院力道日源居士 ●力道山が大田区馬込に在住したのは、昭和30年(1955)からおそらく昭和35年の5年間ほどであろう、根拠は地下鉄の用地が近くに出来たため、騒音を嫌った力道山が替え地を求め赤坂に移り、リキ・パレスが出来たと言われる。 (注)これらの半纏は当時屋敷に出入りしていた方からお借りして写真を作成した。(所有・増田氏)禁無断転載 参考図書「君は力道山を見たか」吉村義雄著 (株)飛鳥新社刊 1988年 |
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