わずか39才で死亡した 昭和を代表する風雲児、プロレスラー力道山の墓
力道山墓地写真
『力道山の墓』池上本門寺
大相撲の関取から未知のプロレスに転向、昭和30年代のテレビ普及に貢献、日本中にプロレスブームを生み出した。昭和30年に広大な屋敷を購入して昭和35年頃まで大田区に住んだ。(航空写真参照)
  三人の子供は地元の梅田小学校に通学した。屋敷内にはプールもあり、室内はアメリカ製のカラーテレビや電気製品があり、当時の生活水準から見れば別世界(アメリカ)だった。地下ガレージがあり、一説には猪木など弟子も住んでいたと言われる。馬込を愛していたようだ。やくざに刺されたキズがもとで死亡、享年39才の若さであった戒名は大光院力道日源居士。墓地の右手裏側は徳川家ゆかりの墓がある。本門寺墓地内でも人気のあるスポットである。力道山の半纏・略歴
墓石写真 ブロンズ像写真

右の墓石に戒名が彫られている。墓誌には力道山のみが記載されている、家族の記載はない。左側は長男義浩氏の墓である。

都営地下鉄工場写真 階段写真

力道山屋敷跡……屋敷航空写真  

都営地下鉄陸橋から見た力道山屋敷跡(崖の上)、中央に小さく見えるのが屋敷跡に立つマンション。航空写真に見られるように工場は、江戸時代には将監谷と呼ばれる湿地帯であった。耕地整理により野原となり、屋敷は台地のはずれに建っていた。入口の道は嶺道より入り、右写真のように野原におりる階段があった。現在、屋敷の階段は東京都交通局馬込庁舎・地下鉄操車場の建設により取り壊された。屋敷がいつまであったのかはっきりしない。

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