大森・品川の遠浅海岸は江戸時代からの海苔養殖場
「東都名所 大森」一勇斉国芳 極印・天保7年(1836)頃、版元・加賀屋 国立国会図書館デジタル化資料

 天保期の歌川国芳浮世絵収集家・鈴木通雄氏によれば、この「東都名所」21枚は前期と後期に分かれるという。前期はタイトルが枠外にあり、その下に版元「喜鶴堂」(佐野屋喜兵衛)の朱印が押されている。このため、俗に「喜鶴堂東都名所」と呼ばれている。佐野屋喜兵衛は江戸から明治まで続いた江戸地本草紙問屋元祖29人の一人である。
 前期は天保5年1834)頃、後期は天保7年(1836)から10年(1839)頃までである。国会図書館デジタル化資料所蔵の上記の浮世絵は後期板行であり、喜鶴堂の摺りか定かではない。

浮世絵「名所江戸百景 鮫洲」歌川広重 安政3年(1856)から安政5年(1858)版元・魚屋栄吉 拡大表示   国立国会図書館デジタル化資料

海岸に見える小さな木のようなものは、柵と言われる海苔養殖場、絵は水平に近いアングルから海苔採取の風景を捉えている。大森品川の遠浅海岸には良質の海苔が採れた。浅いところは歩いて、深いところは「ベか舟」と呼ばれる舟に乗り海苔を採取した。この浮世絵は、海と空に幕末天保元年頃に西洋から入った「ベロ藍」(ベロリン藍・プルシャンブルー・プロシアブルー・ベルリンブルー)という人工顔料を使い、透明感のある青を表現している。人間と葦は伝統的な藍を使い、暖かい表現にしている。参考「浮世絵芸術 116号」日本浮世絵協会/国際浮世絵学会刊。

名所江戸百景は、歌川広重最晩年の名所図会揃い118枚である。広重は完成を見ずに没した。1855年に発生した「安政大地震」で江戸は壊滅的な打撃を受けた、広重の受けた衝撃も激しく、彼の愛する江戸町の鎮魂のため名所江戸百景を描いたと言われる。懐かしい江戸を思い描き、描かれた風景は彼の心象風景である。アングルもやや高くとり、遠くを見て昔を懐かしむ様である、また実際にはない情景も描いており、これは江戸っ子達が愛した江戸風景である。両国花火は安政地震で亡くなった人たちの鎮魂と江戸の復興を祈った祭りである、シリーズ中でも両国花火は特異な一枚である。

 鮫洲の風景は、誰もが納得する俯瞰風景であり、実際にはこのように見えるアングルはないが、心安らぐ風景であり、陳腐になりがちな風景を見事にまとめている。このシリーズでは大田区も洗束池八景坂兜掛松蒲田梅園など三枚が選ばれている。



画題「大森朝乃海」明治13年(1880)、画工・小林清親 出版人・福田熊治貞 寸法・415×280ミリ「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵
 
  上の歌川国芳の浮世絵が江戸時代である、比べてみると海の表情は変わらない。しかし、明治時代の小林清親の絵背景には、品川お台場や帆船が描かれている。夕景の前に姉様かぶりの娘は、ふり棒(粗朶)から海苔を採取している。娘の乗る舟はベガ舟と言われ、内川河口から作業場へ戻った。内川はベガ舟を止めるため、直線に改修工事を行った。
大田区刊ー大森の海苔を知る本

写真 本『絵画に見る海苔養殖』図録 大田区郷土博物館 1991年 古今からの資料・浮世絵・図会などが載っている。〔右〕

『海苔のこと 大森のこと』〈海光文庫〉編集・元大森海苔漁養殖業者+編集委員 〔株〕ノンブル社2010年

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