三本松塚と周りに点在する縄文・弥生から戦国時代頃までの遺跡
天祖神社(別名)御伊勢森の神社
社殿写真

北馬込の尾根中央に立つ「三本松」……天祖神社は御伊勢森の神社と言われた。
  臼田坂からのバス通りの環七を越える陸橋付近が「三本松」と言われる、標高は23メートルで高く目立つ所であり、大田区内の武蔵野台地でも古い地層の台地である。この台地に立っていた「三本松」は、古来より往来の道しるべとして使われたようだ。池上道から夫婦坂を登り、荏原・中延に向かうときも、夫婦坂の頂上付近で三本松を見ることが出来た。
  天祖神社社殿の裏側には、古い塚状の盛り土がある。古墳ではないかと思われ「三本松古墳」として登録されていた。平成4年(1992)の調査では、東西11メートル、南北8メートルである。古墳と思われたが地中調査でも発見物はなく、宗教的な塚ではないかと推定された。歴史の経過から「梶原氏」との関係を推定する学者もいる。

 南側の台地には、旧石器時代から中世戦国時代までの遺跡が点在する。旧石器時代では良く知られた「馬込貝塚」、「綱島園内遺跡」。縄文時代・弥生時代では、東側の大森方向に「長遠寺貝塚」がある。この地は中世には「馬込城」といわれた地形を利用したかなりの規模の土塁の城があった。また、「天満宮付近遺跡」(縄文時代)、「篠谷遺跡」は磨製石包丁が出土した。 この付近は縄文・弥生から戦国時代まで、いく時代にも人間が住んだ歴史ある台地である。下に東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスのリンクがあります。


根方(上池上)から夫婦坂に向かう右斜面は、「根方貝塚」・「馬込貝塚」と言われた。この貝塚が世間に広く知られたのは、明治の小説家江見水蔭が実名で考古冒険小説『地中の秘密』(博文館・明治42年)を書いたからである、明治42年(1909)の事である。彼は小説の中で地中から出る土器・曲玉・石斧などが発掘されることを書いた。そのおかげで子供から大人まで手に手にシャベルを持って、この遺跡にやって来た。明治から大正初期のことであり、充分な調査が行われずに荒らされた。その後、開発が進み住宅化により埋まってしまった。現在ではその貝塚跡を見ることは難しい。

貝塚からは、貝類や動物の骨、犬の埋葬あと、女性の骨も発見された。土器は縄文式で6000年から2000年前と推定されている。

三本松塚は、環七と第二京浜の立体交差近くにある。この付近で台地を削り高い切通しとなり、荏原へのバス通りは新馬込橋の陸橋を越える。今はない三本松が近くにあった。



天祖社殿裏が「三本松塚」である。案内の看板等はなにもない。神社も公園内にあり由緒などを考えると寂しい気がする。下の写真は社殿裏側の塚である。 天祖神社


都心の大動脈環状7号線をまたぐ陸橋が「新馬込橋」で橋の袂には、川瀬巴水の「馬込の月」のレリーフが彫られている。左は池上通りつながる嶺道、右は荏原町から中原街道に行ける、古くは都道56号大森田無線と言われた。右のビル裏側に天祖神社がある。写真は環状7号線、進行方向が杉並方向で反対は大森方向。

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