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1.狩野四家筆頭は歴代将軍の画像制作をする…… 将軍が亡くなると将軍画像を制作することが狩野家総帥に命じられた。また塑像も制作され御霊屋に安置された。塑像の制作は代々、京都の七条左京法橋が担当した。狩野探幽は11才の時に家康に拝謁している。そのあと何度、家康に暖かさだかでないが印象は強烈であったに違いない。その時の記憶を元に制作されたのが家康像である。 ●2.右は二代将軍秀忠像である。寛永九年(1632)になくなった秀忠は台徳院となり、探幽は霊廟の画事に参加する。霊廟は芝の増上寺に造られ、その御霊料として大田区馬込領などは増上寺の支配地となり幕末まで続いた。 これ以後、歴代将軍の画像制作は、狩野家筆頭の家に命じられた。鍛冶橋狩野家は探幽没後振るわず、木挽町狩野家がその地位に就いた。歴代将軍の画像制作の狩野家 、三代家光と四代家綱は中橋狩野の狩野永真安信、五代綱吉は鍛冶橋狩野の狩野探信守政、六代家宣と七代家継は 木挽町狩野の狩野如川周信、八代吉宗と九代家重は中橋狩野の狩野祐清英信、十代家治は木挽町狩野の狩野栄川院典信、十一代家斉は木挽町狩野の狩野晴川養信、十二代家慶は木挽町狩野の狩野勝川院雅信、十四代家茂は木挽町狩野の狩野勝川院雅信と思われる。十五代慶喜は狩野家が描いておらず、記録では玉置金司・矢崎千代治画が久能山東照宮に所蔵されている。 (左は家康、右は秀忠の像) |
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●2.探幽も将軍の側にいて真写を行った…… |
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●3.朝鮮通信使贈屏風や記録巻物の製作…… |
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朝鮮通信使の巻物 ●朝鮮通信使は江戸時代を通して12回行われた。そこで贈朝屏風が答礼のため贈られる事は、第4回以降である、また数は20双である。この制作は御用絵師(奥絵師)を中心に表絵師18家(愛宕下狩野家は成立が遅く参加していない)が受け持った。この差配をしたのが、中橋狩野家や木挽町狩野家の頭取(触頭)である。 贈朝屏風制作の頭取を務めたのは、第6・7回は永信安信(中橋狩野家)、第8回は養朴常信(木挽町狩野家)、第9回は如川周信(木挽町狩野家)、第10・11回は祐清英信(中橋狩野家)、第12回(最後の朝鮮通信使)は伊仙院栄信(木挽町狩野家)である。 朝鮮通信使関連の仕事は屏風制作だけではない、上記の道中の行列を描いた巻物を始め、鞍皆具(馬具などの総称)、料紙。硯箱、卓などに蒔絵を施すための下絵制作も御用絵師の仕事であった。(参照「美の架け橋」榊原 悟著 ペリカン社 2002年刊) |
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●4.江戸城障壁画の制作…… 江戸城障壁画は御用絵師最大の仕事である。 狩野探幽守信も寛永三年(1626)には二条城行幸殿や江戸城二の丸など大広間の障壁画を担当しており、探幽が狩野一門を統率してい明暦三年(1657)の本郷丸山本妙寺から出火した火事、いわゆる振袖火事は、探幽が寛永十七年(1640)三十八才のとき描いた江戸城本丸御殿障壁画も焼失した、探幽は力を落としたであろうが、万治年間の再建に力をつくした。この再建の資料が残っており当時の狩野家絵師の名前が並ぶ。勿論、探幽も「御奉行松平大和守御広間」「脇坂中務少輔御廊下、黒書院」他などを描いた。 江戸城の中でも、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ松の廊下「長御廊下(ながのおろうか)」も探幽の婿であろう素川信政(1607〜1658 猿屋町代地狩野家 表絵師)が描いた障壁画であった。左が晴川院は模写した探幽の「松の廊下」である。 この万治年間再建の絵師が、探幽、常真、安信の三名で主要部分を描いた事である、探幽尚信は若死にしている。 (参考・『狩野探幽 御用絵師の肖像』榊原 悟著 臨海書店 2014年刊) |
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