尾張藩馬廻組藩士・高力猿猴庵が描いた『姉羽鶴之図』自筆
 

江戸時代の東京は、自然が豊かであり至る所で鶴は見られたようだ。鶴は鳥の最上品として見られ、幕府でも公式の儀式にも使われた。それでもアネハツル(ツル目ツル科アネハツル属)は珍しかったようである。胸の長い毛や目の後ろに伸びる白い飾り羽が特長である。体長は90センチほどと鶴の中でも最小である。渡り鳥で、チベット辺りで生息し、インドや中東、アフリカで越冬する、この時、高度5千から8千メートルを飛びヒマラヤ山脈を越える。日本にはまれに迷鳥として見つかる。画中には、文政2年(1821)6月に尾張で捕獲され、9月に将軍家斉に献上されたとある。

ヒマラヤ山脈を越える鶴
  ヒマラヤ山脈は、大陸移動によりインド大陸が北上して、ユーラシア大陸にぶつかったことにより造られた山脈である。それまで、平らであった台地(大陸)が年に数センチ隆起して現在のように数千メートルの山脈になった。驚くことに一つの超大陸であったゴンドワナ大陸は、ほぼ平らで高さ200メートルの丘しかなかった、そこに大陸移動により大陸が分裂して山脈が形成されたのである。鶴の先祖は、毎年少しずつ高く飛んだのであろうか。
  大田区南馬込にも黒鶴神社があり、江戸時代、近くで黒鶴のつがいを捕獲して幕府に献上したことから付いた名前であるという。

和紙を8枚つなげてある。左右は約74センチである。国立国会図書館デジタル化資料

高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)について  
 本名は種信、尾張徳川家馬廻組300石の高力家に生まれた7代目である。宝暦6年(1785)に生まれ、天保2(1831)に76才で没した。文章だけでなく絵も良くした。彼の絵入り本は分かりやすく、貸本屋などで広く読まれたと言われる。代表作『尾張名陽図会』『尾張年中行事絵抄』『熱田祭奠年中行事図会』などがある。名古屋市博物館・新卑語姑文庫から『猿猴庵日記』が刊行されている。絵は国立国会図書館デジタル化資料 
 
高力猿猴庵が描く『猿猴庵随観図会』、
620年に日本でも見られたオーロラ記録

高力猿猴庵の描くオーロラー
    文字の記録では、『日本書紀』に二回記録されている。一つは、推古天皇が『天に赤気あり、長さ一丈余り、その形雉の尾に似たり』(620年12月30日)と記録されている。明和7年(1770)に起きたオーロラは北海道から九州(長崎)まで見られた大規模なものであり、約40余りの書物に記録が残っている。中でも絵で記録されたのは『猿猴庵随観図会』(安永7年)である。 

日本書紀に記載された2番目の記録は、天武天皇の682年9月18日、『灌頂旗(かんじょうばた)のような形で、火の色をしたものが、空を浮かんで北へ流れた。これはどの国でも見られた。「越の海(日本海)にはいった」というものもあった。この日、白気(はっき)が東の山に現れ、その大きさは四囲(一丈二尺=4.6メートル)であった』(日本書紀・28巻 天武天皇)。古代の人々は、見たことのないオーロラにびっくりしたことであろう。一番目の記録は、620年12月30日に『天に赤色の気(しるし)が現れた。長さは一丈(約38m)あまり、雉(きぎす)の尾のようであった。』である。国立国会図書館デジタル化資料 『日本書紀』全文検索


高力猿猴庵の『猿猴庵随観図会』は、明和4年(1767)から明和7年(1770)のオーロラ出現、大干魃とその法会、安永2年から7年までの大きな出来事を記録した本であるように感じる。彼は一生を通して尾張の事柄を日記に記録した。

名古屋市博物館・新卑語姑文庫から『猿猴庵日記』
が刊行されている。