時代小説の舞台 池上本門寺の石段 此経難持坂(しきょうなんじざか)
の戦い『鬼平犯科帳 本門寺暮雪』池波正太郎著


鬼平(おにへい)で知られる『鬼平犯科帳』池波正太郎著の中で、池上本門寺の石段「此経難持坂」が登場する。タイトルは『本門寺暮雪』である。小説の初出は、昭和48年12月文藝春秋刊「追跡」の中に収録された。
 
 
鬼平(長谷川平蔵)とは実在の人間である、江戸時代の天明から寛政(1781〜1801)に活躍した「火付盗賊改」の長官である。老中に所属して直参旗本(じきさんはたもと)の中から選ばれた。仕事は町奉行の手に負えない凶賊の取締である。捕縛(ほばく)出来ればよいが、切り捨てることも許されていた。実在の人物だが、池波正太郎氏によって『人情には厚いが悪は許さない』と言う人物に描かれた。ファンも多く、小説の中の食べ物や舞台を巡る同好の集まりがあるほどである。作者池波正太郎は戸越銀座に住んでおり、池上本門寺や御会式もよく存じていたと思われる。


『本門寺暮雪』から、鬼平決闘のあらすじ……
 
  平蔵と録之助は、凄い奴の追跡を諦め、池上本門寺に参拝することになった。冬の雪降る午後の4時頃のことである。あたりは薄暗くなり、二人は「此経難持坂」96段を登り始めた。あと五〜六段というところで突如、上から剣が振ってきた、録之助は一撃で石段を転がり落ちていった。平蔵は刀を抜くまもなく応戦、体当たりを食わせたがかわされた。数段落ちた平蔵が最後だと観念すると、先ほど餌を与えた柴犬が凄い奴の足にかみつき、その隙に平蔵は体当たりを食わせ石段から追い落とした。刀を落とし逃げる凄いやつを追いかけ、切り捨てた。この舞台が「此経難持坂」なのである。(『鬼平犯科帳』池波正太郎著 文春文庫 (株)文藝春秋刊)

池波正太郎氏は品川区戸越に住んでいた。池上本門寺にも近く、御会式などで当然この坂は昇った経験があるはずであり、頭上からおそわれることがどんなに不利かわかっていた。この階段を登ると、逃れられない場所に追いつめられた平蔵の心の内がよく分かるである。

下の絵図を見るとなだらかに見える。しかし、この高さを96段の階段で登ることは、ひとつひとつの石段がやや高い(高さ18センチ)、それは『法華教』の偈文96文字にちなんでいる。そのため、無理に段数を決めたため人が登るにはきつく感じられる。絵図のようになだらかではない。現在はすぐわきにゆるやかな「女坂」が造られた。

江戸名所図絵
絵図で見ると、階段踊り場を五つ確認できるがこのようになだらかではない。高さが低く、現在の感じでは倍ぐらいの高さに思える。下の全体図を見るとわかるが山の周辺の感じが変わっている。アップは下の写真中央部右側である。

「江戸名所図会 本門寺」斉藤幸雄著 長谷川雪旦画(天保5〜7年)より部分江戸名所図絵

「此経難持坂」の由来を書いた木柱。登り切った右側にある、そのわきに、人が隠れるほどの大きな石灯籠があるが、いつからあるのか不明。凄い奴はここに潜んで平蔵を待ちかまえていたのかもしれない。

雪の此経難持坂 2008年 右の古写真は、明治32年(1902)
3月頃の撮影、(「旅の家つと」12号)  国立国会図書館デジタル蔵

現代版画
2代広重 浮世絵
高橋松亭(弘明)
 新作版画「池上夜の雪」大正13年(1924)から昭和10年(1935)。絵の場所は特定できない。寸法177×117ミ
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「江戸名所図絵 池上」 歌川広重(2代)文久2年 (1862)拡大表示
「江戸名所図絵 池上」 歌川広重(2代)文久2年 (1862)拡大表示
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