日本美術品の海外流失……江戸から明治へ関わった人々


〈江戸期から始まっていた美術品の海外流失〉  中国の混乱による磁器の輸出減少に伴い、日本の磁器、古伊万里、色鍋島、柿右衛門などがヨーロッパに輸出された。蒔絵(まきえ)も加わり輸出は増えていった。浮世絵が加わったのは後のことである。

特にヨーロッパで日本文化を広めたひとりにオランダ商館の医師シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年2月17日)、神聖ローマ帝国がいる。彼は精力的にあらゆる日本の資料を集め、その資料の収集の中に、日本地図があったことからスパイ容疑を招き、1829年に強制退去させられた。帰国したシーボルトは1830年から自宅で収集したものを公開した。後に、これら収集品はライデン(Leiden)国立博物館(下の写真)の基礎となったのである。このことが、ヨーロッパで日本文化を広めるきっかけとなった。


ラザフォード・オールコックは、日本での初代英国総領事であった。彼は東京の西部、現在の港区にある東禅寺に領事館を開設した。
「大国の都」を書いたイギリス人ラザフォード・オルコックは、幕府のロンドン博物館(1862年)出展の選定を手伝った。漆器239点、陶磁器86点、花器燭台香炉などの銅器134点、その他染織品など総数600点を超えた展示品である。オルコックによれば「日本の美術工芸品はヨーロッパの最高水準の製品に匹敵するのに、価格は安い」と述べている。これが公式なヨーロッパへの紹介であった。

また、よく知られたアーネスト・サトウ(上写真)は滞在期間が長く、写楽の大首絵27点を始め、多くの浮世絵を持ち帰った。それらは、のちにイギリス大英博物館に収められている。

〈明治の美術流失……神仏分離により始まった廃仏毀釈が大きな原因となった〉

font>オルコック氏らは美術愛好家であるが、美術商ではない。帰国の時に集めた美術品を持ち帰るだけである。

しかし、本格的に扱おうとする美術商が現れた、エミール・エチエンヌ・ギメ(1795-1918年)である。彼はフランス政府より「極東学術調査」ということで日本、中国、インドの各国を回り宗教を調査した。明治9年(1867)に来日したギメはあらゆるものを扱い、現在、その収集品はフランスのギメ美術館で展示されている。(次のページに彼のコレクションの話があります)

明治13年(1880)にはジークフリート・ピングがやってきた、東京、神戸、横浜に支店を造り、集めたものをパリに送った。彼のパリの東洋美術工芸品店に廃仏毀釈による、ただ同然の仏像や仏具、絵巻物がどれだか送られたか確かな記録はない。



日本人が、自分の国の美術品に価値を見いださないのに、外国人が 高い価値を見いだし、警鐘を鳴らした。その一人が大田区に縁の深いエドワード・シルヴェスター・モースである。彼は大森貝塚の発見で知られているが、二度目の来日で、日本中から系統的に陶磁器を集めた、4000点を超える収集品はボストン博物館に収まり、同館の東洋美術の基礎となっている。

また、彼がアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(上写真)を日本に呼び寄せたことは大事な功績のひとつである。フェノロサは、来日した日本で廃仏毀釈が吹き荒れ、日本寺院が破壊されていることに大きな衝撃を受け、保護に立ち上がった人である。彼は文部省に掛け合い美術取調委員となった 。

フェノロサと弟子の岡倉天心は、全国の社寺を回り美術品の学術的解明と保護に勤めた。この折り、彼自身も自分への給料で多くの美術品を買い求めた。集めた20,000点にも登る美術品はボストン美術館に寄贈された。この時の金額は28萬ドルであったという。彼のコレクションの白眉は「平治物語絵巻・三条殿焼討の巻」である。値は1000円であったという。


同じように友人のウィリアム・スタージス・ビゲローは密教に興味を持ち、50,000点にものぼるコレクションを集めた。日本と中国の美術品をボストン美術館に寄贈した。平安仏画『大威徳明』も含まれている。(日本にあれば国宝である)ボストン美術館所蔵

 
またフィノロサから収集品を譲り受けたチャールズ・ラング・フーリアは明治5年(1871)から五回も訪れ、大量の美術品を買い入れた。

俵宗達『松島図屏風』を含め、北斎の浮世絵160点などは後にフーリア美術館に寄贈された。次のページに続く

扉に戻る 次のページ