〈日本人による、積極的な美術品の輸出〉
林忠正(1853〜1906)はフランスのパリ万博を機会に、フランス印象派の画家達に浮世絵を売った。彼の仲間の小林文七もフェノロサ、ビゲロー、モース、フーリアに大量の美術品を売った。アメリカに山中商会を開いた山中定次郎は、アメリカの大富豪や博物館に美術品を売った。彼らは日本美術を世界に広めると言う理想があったかもしれないが、あまりの大量の浮世絵などが流失したため、浮世絵の大部分は、日本にほとんど残らなかった。明治年間に浮世絵の第一級品は日本から姿を消したのである。
もちろん、浮世絵に価値を見いださなかった日本人に責任がある。しかし、仏像や仏具、絵巻物の類になると明治初期の廃仏毀釈の影響が大きかったと言わざるをえない。古道具屋に山と積まれていた仏具や寺宝は、日本人は誰も買わなかったのである。価値を見いださなかったからである。
『日本人が売るから買うのだが、実にもったいないことだ』というフィノロサ達の言葉を聞き、岡倉天心が日本美術の保護(国宝保存法)に乗り出すきっかけとなった。ボストン美術館が購入した写真の「吉備大臣入唐絵巻」(日本にあれば国宝)がきっかけとなり昭和8年(1933)法律が制定され美術品の輸出が制限された。やっと美術品の流失に歯止めがかかったが、すでに多くのものが流失した。時々、ニュースになると始めて分かることが多い。
小林利延氏の次の言葉が的確に当時の状況を表している、『それまでに流失した美術品の数々が、欧米の日本美術に興味を持つ人々すべての眼に触れるほど大量に流布したからこそ、(中略)ジャポニズムが開化するに至ったことは事実である』。吉備大臣入唐絵詞(模本) 文化遺産オンラインに画像と解説があります。また、ウィキペディアでも詳細があります。
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