ー大田区と廃仏毀釈の例ー

大田区が調査した『大田区の神社』 大田区の文化財 第七集(1971年 大田区発行)から、廃仏毀釈の影響を調べてみよう。

江戸後期に出された『新編武蔵風土記稿』によれば、今の大田区地域に神社は約191社ほどあったという。ところが今回の調査によれば約100社で、約半分に減っている。凄まじい明治の廃仏毀釈の結果である。明治に決められた神社の社挌によれば、大田区に最高位の官幣社はなく、「新田神社」の府社が最高である。元別当として寺の名前を記載してある神社は44社ある、これらが神仏分離により独立した神社であろう。
 諸国の名神大社を勧請した八幡、諏訪、浅間、白山などの名前の神社が77社(その内訳は、稲荷神社17社、八幡神社15社、天祖神社と神明社が12社、諏訪神社5社、熊野神社4社である)。

 明治に名前を地名からとり社号とした神社が14社、これが廃仏毀釈により誕生した神社であろう。民間信仰を祀った神社が3社、式内社という官社扱いの神社が2社、新田義興の神社が2社、太田氏の名前の神社が1社である。

『大田区史』(平成8年 発行)から、明治2年(1869)に出された「神社書上帳」にある林昌寺の例。

 仲池上1丁目にある八幡神社(子安八幡神社)は、神仏分離によって生まれた神社である。明治2年12月 品川県に提出された「神社書上帳」によれば、祭神は「応神天皇」である。神社は境内末社に稲荷社、疱瘡神があり、林昌寺別当が神勤していたが、これからは中延村の神主鏑木外記に依頼すること、神社にはみだりに木像などを置かないことを記載している、これにより林昌寺から分離、独立した神社となった.

1503年頃開創の林昌寺は、日蓮聖人を慕い、この地にやってきて草庵を造る、日蓮宗の由緒ある寺である。 下の写真は、中央の石柱で神社と寺を分けている。左の石段を登ると子安八幡神社、右の道は林昌寺に行く裏参道である。

《林昌寺と子安八幡神社》
明治の廃仏毀釈の影響で分離された子安八幡神社
写真
写真
 
子安八幡神社 社殿


他にも、真言宗蓮光院の六所神社が独立、長遠寺の八幡神社(馬込八幡神社)も独立した。しかし、神職になったが寺の住職の時よりも生活は苦しくなり、政府の目論んだようには行かなかった。

 郷土史研究家として活躍の宇井邦夫氏の著書『東京の熊野神社』に大田区の記述がある。平成12年の発行、地図を頼りに足で確認した労作です、確認された熊野神社12社のうち半分の6社がその場所では確認できなかったそうです。東京都神社庁のホームページでは19社の神社しか紹介さえていません。神社の数多くが無挌社であるのです。詳細に廃仏毀釈による影響を調べた調査はないようです。

 大田区が調査した『大田区の寺院』大田区の文化財 第八集(1971年大田区発行)
この調査によれば、大田区には宗教法人の資格を持つ寺院が、112寺記載されている。そのうち47社が日蓮宗派である、16社が浄土真宗本願寺派である。この調査から明治の廃仏毀釈が、どのような影響を与えたかを読みとることは難しい。

扉に戻る     前のページに     次のページに