鎌倉鶴岡八幡宮に見る廃仏毀釈の凄まじい破壊の跡


皆さんがよくご存じの鎌倉鶴岡八幡宮を例にして、廃仏毀釈の凄まじい破壊のあとを検証してみましょう。ネットで廃仏毀釈を調べているいくうち、大変素晴らしいホームページを発見いたしました。それまでも図書館等で資料を調べましたが、具体的にどんな破壊があったのか知ることは出来ませんでした。

 このホームページにはウエッブマスター(著者)が調べた廃仏毀釈の破壊実体が、多数の寺ごとに記載されています。宗教的狂気がどんなことを引き起こしたか見るうちに背筋が寒くなりました。世界史に見る文化の破壊が日本でもあったのだと知ることが出来ました。  


東海道名所図絵 第6巻 「鶴岡八幡宮」全体を俯瞰してみたところ

〈鎌倉 鶴岡八幡宮に吹き荒れた廃仏毀釈……例ー1

皆さんもよくご存じの鎌倉鶴岡八幡宮は、現在の数倍の規模を有した寺社でした。正式名称は、「鶴岡八幡宮寺」と言う寺でした。現在の額は明治時代に作られたものだという。
明治3年(1870)5月、寺からの届け出では薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門を取り壊したと言う。こうして、鎌倉時代から続く「鶴岡八幡宮寺」は廃絶しました。上の江戸期に描かれた「東海道名所図絵」に見られるように薬師堂、大塔などを擁していた大寺でした。(参考 『鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺』 貫達人著 有隣新書 平成8年発行


 鎌倉時代(1063年頃)に建立され、承元2年(1208)には神宮寺が創建されました。その後、何度も火災による焼失と復興を繰り返しました。江戸時代には幕府による上下宮、仁王門、大塔、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂などが造られた。また、周りには、十二院の社僧があった。将軍家光の時には薬師堂、鐘楼、楼門などを造営して寺領500石を与えた。その境内には東照宮を造営した。その後も幕府は手厚い保護を与えた。

 明治維新前には、方5間の大塔、若宮社、天神社、八幡社、大神宮、薬師堂、観音堂 法華堂、弁天堂、鐘楼、食堂、宿坊16坊等を擁する大八幡宮寺であった。
 
明治初年頃の鶴岡八幡宮の荒廃、上の写真でその様子が分かる。

明治3年の廃仏毀釈では大塔を始め主だった仏堂は全て破壊された。それだけでなく仏教に関係するもの、仏像、仏具、什宝、経典なども焼かれたり、持ち出されたり散佚したという。この行為の先頭に立ったのは、神仏分離で神主に改名した十二院の社僧であったのではないか、他の寺の場合にもそのような例が多い。わずかに残った仏堂も明治8年の火事で焼失した。(写真家フェリーチェ・ベアトにより撮影されている)

廃仏毀釈による破壊で什宝は散佚したが、行き先が判明している美術品もある。
 
  鎌倉寿福寺(仁王門仁王像)、浅草寺(一切経 重文、他は焼失)、普門院(薬師堂の仏像)、五島美術館(愛染明王像 重文)、東京国立博物館(伝源頼朝像)元は白旗明神社の御神体であったという。鎌倉青蓮寺の弘法大師座像(重文)は旧等覚院の本尊であったという。その他、数多くの什宝が寺や個人所蔵になっている。

 以上の出来事は、鶴岡八幡宮だけに起きたのではなく日本中の寺や神社で起きた廃仏毀釈の影響です。破壊を免れたものの、どれだけが外国のコレクターや美術館に買われたかわかりません。浮世絵やのように海外に重要な美術品があるという事態になっています。


イギリス植民地コルフ島で、1834年に生まれたイタリア人写真家 フェリーチェ・ベアトの撮影した鶴岡八幡宮寺の写真が見られる、ホームページ「e-ざ鎌倉」を紹介します。「知られざる鎌倉探索」で見てください。

参考 『鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺』 貫達人著 有隣新書 平成8年発行

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