明治政府が急ぐ近代化の道……民俗信仰の禁止


土俗的な風習への圧力は廃仏毀釈の狂気が収まった明治4年以降も、近代化政策(文明開化)のもとに押し進められていった。六十六部の禁止、普化宗の廃止、修験宗の廃止、僧侶の托鉢禁止、祈祷などの禁止などである。

修験道(しゅげんどう)……

 特に神道とも 仏教とも違う修験道は、神仏分離の大きな影響を受けた。吉野や羽黒山の修験の中心地は、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心におおくの神社や寺があったが、明治7年に全山を神道化せよと命じられた。激しかったのは出羽三山で、道にあった地蔵様も谷に突き落とされた。


〈冨士講の禁止…〉
 富士山を霊山として信仰する富士信仰が、禁止されたのは明治7年(1874)の頃である。山頂には大日如来や多くの仏像があったが、全て除かれて山麓にあった浅間神社が移され山頂に据えられた。大田区にも富士信仰の冨士講の跡がある。

 

大田区南馬込2丁目にある「冨士講灯籠」である。江戸時代文政7年(1824)の碑文には、200人ほどの名前が刻まれている。富士山に行くときはここに集まり祈願してから出発した。
 このように大田区には、地蔵やそれを祀った祠が数多くあり民衆の素朴な信仰になっていたが明治に入り抑圧された。しかし、今でも道ばたに多くの地蔵を見ることが出来る。残念なことにこれら道祖神も少なくなっている。


それ以外にも裸体、男女の混浴、入れ墨など民俗的な事柄も古いもの属し、近代化にはふさわしくないものとして禁止された。国により村の氏神だけが選び出されて、いま私達が村や町で見るような鳥居、社殿、神体などが成立した。

 また廃仏毀釈は、民俗信仰とそれらの行事・習俗なども否定した、農民達が朝な夕なに拝んでいた地蔵様や地域に根ざした講などの集まりも禁止したのである。土俗的な神仏は迷信や呪術として抑圧された、民衆にとって葬儀などの一時的な変化より生活に根ざした民俗習俗の抑圧が大きな動揺をもたらしたのである。

 政府は村々にあった神仏の中から、氏神(産土社)(うぶすな)のみを残し神社とした。いま我々が見る神社の風景である鳥居や社殿、神体(鏡)などはこの時成立したのである。 民衆の宗教心は政府から押しつけられた圧力ではなくならず、のちに多くの寺院が再興されていった。特に仏教界の真宗の抵抗が激しく、地域に根ざした住職の活動がめざましかった。

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