袖玉武鑑に見る幕末弘化3年(1846)の江戸狩野家部分である
木挽町狩野家 晴川院養信(9代) 鍛冶橋狩野家 兵部守貞
中橋狩野家  永徳立信(15代) 山下町狩野家 真笑意信 
駿河台狩野家 洞白陳信(7代) 門人に河鍋狂齋 下谷(神田松永町狩野家) 宗益景信
御徒士町狩野家 玉圓永徳 築地小田原町狩野家 柳雪匡信
猿屋町代地狩野家 素川壽信(5代か) 麻布一本松狩野家 休清実信(7代)
中橋狩野家 梅軒則信 根岸御行松狩野家 晏川貴信
猿野町代地狩野家分家 洞庭教信(7代) 深川水場狩野家 了承賢信(4代
芝愛宕下狩野家 探龍守王(8代) 父 晴川院 中務雅信(勝川院雅信)木挽町狩野家10代
築地小田原町狩野家 式部中信 参考・日本の美術 第262号 江戸の狩野派 昭和63年3月15日
御絵師の上に、丸若とあるのは若年寄支配を示すものか。
《御絵師・表絵師》(号と名前)

『袖玉武鑑』(しゅうぎょくぶかん)弘化3年 御書物師 出雲寺萬次郎板 江戸横山町壹町目 省略懐中本 寸法(縦2寸 横4寸5分)ページ数(80から90丁)、(ポケット版) 内容 江戸幕府官僚の情報を載せる。屋敷・官位・家紋等 

上記の武鑑は、幕末弘化3年(1846)に江戸護国寺付近で宿屋を営んでいた家に残されたものである。武鑑の表紙はなくなり、かなり使い込んでいる。想像するに旗本屋敷が多かった護国寺付近で、宿屋に泊まった人が、江戸城に登上する大名行列見物の際に、藩名を知るのに使われたのでないだろうか。

『袖珍武鑑』(しゅうちんぶかん)武鑑は、大名図鑑であり名前から大名の情報を知ることが出来ます。

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袖玉武鑑の「わ」御絵師部分
 国立国会図書館所蔵の『袖玉武鑑』
版元 須原屋茂兵衛 出版年・慶応3年(1867) 寸法・7センチ×15.8センチ このスタイルの武鑑は、版籍奉還が行われた明治2年(1869)まであり、翌年からは『藩銘禄』と名を変えて発行された。国立国会図書館デジタルコレクション

 この武鑑は、表・裏表紙4ページ、本文186ページ、内1ページは広告である。目次は「あいうえお順」であり、上記は「わ」項目の御絵師ページである。名前はズーム拡大で見てほしい。始めは、浜町狩野家8代目董川中信(とうせんなかのぶ)、次は、中橋狩野家9代目永徳立信(えいとくたちのぶ)、驚くことに三番目に下谷御士町狩野家6代目玉園永信(ぎょくえんながのぶ)など20名である。


北斉摺物
江戸時代も中頃になると太平の世が続き、武士も町民も余暇を楽しむ風潮が起きた。勿論、武士も町民も生活にゆとりがある階級層である人しか出来ないが、今のようにカメラはない、そこで記録するには絵師に依頼することになる。階級意識が厳しく激しい江戸時代では、裕福な町民とは言え、幕府の奥絵師には絵を依頼できない、出来たとしても表絵師か町絵師ではないか。

 幕臣である旗本は、狩野家の絵師に依頼するのが決まりであったに違いない。鳥好きの幕臣が創った豊かな図譜の世界がある。江戸図譜解説 図譜目次をみる。また、町民は浮世絵師に依頼することになる。その一つの例が、狂歌のグループが仲間に配る「摺物」ではないか。写真は葛飾北斎の「摺物」である、建築家フランク・ロイド・ライトは北斎の摺物のコレクターであり、数多くの摺物を保存している。(財団所有)

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