江戸時代、生物学に熱中した殿様がいた流行をリードした若年寄 堀田正敦の『堀田禽譜』


江戸幕府の高級官僚ながら鳥学に熱中した若年寄・堀田正敦(1755年〜1832年)  

 
堀田正敦は、仙台藩主伊達宗村の八男で、堅田藩主堀田正富の養子となり、天明7年(1787)に堅田藩主(1万3000石)に、文政9年(1826)に下野佐野藩主(1万6000石)となる。江戸幕府の役職は若年寄(43年間在職)である。テレビでお馴染みの鬼平犯科帳「長谷川平蔵」の火盗改めを配下におく、幕府の旗本・御家人を監督・支配する重用官僚である。彼は「寛政の改革」にも参加した優れた政治家でもあったが、最も優れた鳥類図鑑と言われる図鑑類を作った。和歌や紀行文を書く文化人でもある。
  彼は若年寄の職務で、学者を管理監督する立場であったが、自身も学者であり、真摯に学究する態度は、本草学の学者達の共感を呼び、彼らは協力を惜しまなかった。鳥好きな大名達も自身の写生などを、転写のために提出するなど協力をした。

在職中にシーボルト事件などが起こったが失脚せずに任務を全うした。また、松平定信の寛政改革に参加しながら、定信が改革に失敗して失脚しても、正敦は若年寄にあり続けたのは、彼の真摯な態度と周りのサポートがあったからに違いない。

国立公文書館のデーターによれば、堀田正敦の若年寄の在任期間は、寛政2年 (1790)から天保3年(1832)の43年間であるという。彼が編纂に力を尽くしたのは、評価の高い『寛政重修家譜』『干城録』である。
 一般的に『堀田禽譜』と呼ばれる禽譜があり、国立国会図書館には、『水禽』上・下、『原禽』上・下、『林禽』一巻、『山禽』一巻、『禽譜』7冊、『小禽譜画』3冊、『漢産小禽』1冊がある。また自らの著作『観文禽譜』3巻(1794年)もある。
 

東京国立博物館には、『堀田禽譜』(東博本『観文禽譜』本文)がある、これには堀田文庫の蔵書印が押されており、本文と対をなす原本と考えられる。また、宮城県図書館には、最終の稿本と思われる『観文禽譜』(12冊1018丁)がある。正敦が仙台伊達藩に送っていた本である。
 
彼の図譜の特長としては、自ら入手した鳥を絵師(関根雲停など)に描かせた図譜と、他の大名が所有する図譜を借りて絵師に写生(複写)させた二種類がある。図譜には、絵だけでなく和漢の古典から、和歌や鳥の名前、資料を引用して記載している百科事典的編集にある。
彼の図譜類は、宮城県宮城図書館に収録されているが、東京国立博物館にも、約58点の絵が収蔵されてWEBで見ることが出来る。下にアクセスアイコンがあります。
(参考−1『科学朝日編 殿様生物学の系譜』朝日新聞社発行 1991年)
(参考ー2『江戸の動植物図 知られざる真写の世界』朝日新聞社刊 1988年、
(参考−3)『江戸鳥類大図鑑ーよみがえる江戸鳥学の精華『観文禽譜』ー』鈴木道男編 株式会社平凡社 2006年刊 定価35.000円)(注)以下のページにおいて鳥の解説は上記「江戸鳥類大図鑑」を参照している。

堀田正敦と狩野派の関わり
『探幽をはじめ、宗秀、安信、典信(栄川院 )惟信(養川院)のほか、正敦の没後も活躍する養信(晴川院)まで、自ら描いたもの(安信の「がらん鳥」のみか)と、木挽町狩野家の蔵図が収録されている。』(『江戸鳥類大図鑑』より)、若年寄堀田正敦は、職務として絵師・狩野家も支配下におく役職である。木挽町狩野家はこれらの写生図を家の宝として秘匿した。また門下が学ぶべき絵として粉本にした。


鳥の姿と関連記述構成
『観文禽譜』三巻6冊(1794年)、堀田正敦の著書であるが、全て文章で付図として図譜もあったようだが失われている。岩崎灌園の蔵書印があることから東京国立博物館の本の写しと思われる。(国立国会図書館デジタル化資料所蔵)

 《堀田禽譜_水禽(水鳥》
『エトピリカ ふがはりがも雄」(水禽ー1)
東京国立博物館蔵 拡大表示

チドリ目・ウミスズメ科に分類される海鳥、エトピリカはアイヌ語で択捉島周辺に多い。正敦のところには蝦夷の情報と共に生きたエトピリカ4羽ももたらされた。和名は花魁鳥(おいらんちょう)分布は北太平洋一帯 。体長40センチほど。

「ヘングイン(ピングイン) キングペンギン」
(水禽−2)東京国立博物館蔵
 

ピングインはオランダ語で、シーボルトはこの鳥をオオウミガラス(絶滅)と考えていたようである。図中の栗本丹州解説には、「アプテノデイテス」とありキングペンギンを指していると考えられる。日本に始めてペンギンがやって来たのは、大正4年(1915)、上野動物園が初めてと言われるフンボルトペンギンである。

木版画 うみかもめ
 「うみかもめ(ウミネコ)海猫」(水禽ー2)拡大表示 
チドリ目カモメ科 和名は鳴き声が猫に似ていることから付けられた。体長45センチほどである。文化13年(1816)に捕獲されたものを船橋勘左衛門に描かせたとあり、現和名はコアアホウドリ。東京国立博物館蔵


『百鳥図』増山正賢のエトピルカ、画中には北蝦夷カラフト島の海辺にて捕獲とある。国立国会図書館デジタル化資料 〈絶滅鳥〉

「蘇州鴛鴦(おしどり)雌」(水禽)
この絵の添書きには長崎写真とあり、実際の鳥を捕らえて描いたものとわかる。詳細不明  東京国立博物館蔵
「朝鮮鴛鴦(えんおう)朝鮮をしとり カンムリツクシガモ」(水禽ー1)この絵は多紀家にあったものを写したものである、画・関根雲停 絶滅鳥。堀田正敦の「観文禽譜」の記述によれば、朝鮮半島から飼鳥としてもたらされたとある。いつ絶滅したか不明、山階鳥類研究所にはオス・メス2体の標本がある。世界に3体の標本しかない。東京国立博物館蔵

木版画かんむりつくしかも
山階鳥類研究所のカンムリツクシガモ標本 

「朝鮮鴛鴦(カンムリツクシガモ)」(水禽)画・関根雲停  
カモ目カモ科オシドリ属 オシドリは東アジア(中国、朝鮮半島、台湾、日本)にしか生息しない。 この絵は、高須候蔵図で借用して写したものである。高須候とは、美濃石津郡高須藩3万石(岐阜県梅津市)である。元禄13年(1700)に尾張徳川藩に連なる松平家が立藩する、堀田正敦が言う高須候が何代目の藩主を指すのか不明である。東京国立博物館蔵 

「コシジロウミツバメ(海燕)」水禽ー2画・関根雲停 

 ミズナギドリ目ウミツバメ科、世界中に分布する。画のコシジロウミツバメは、北海道厚岸町沖の小島・大黒島で繁殖する以前は人が住んでいたが、現在は昆布漁時期に6軒が生活します。コシジロウミツバメを含む海鳥の繁殖地として知られる。コシジロウミツバメの繁殖地としては最南端である。画中に寛政5年(1793)に捕獲と、原図の安房北条藩主水野忠韶が記している。堀田正敦と同僚の若年寄である。
 
また、NHKの「さわやか自然百景」2007年9月9日放送「嶮暮帰島(けんぼっきとう)」で、コシジロウミツバメが生息しているとある。鳥は夜行性で、鳴き声が特長的「オッテケテットット」と面白い鳴き声である。東京国立博物館蔵 
木版画 くまさかあいさ
「くまさかあいさ(霞鴨・葦鴨・よしかも)和名・ヨシガモ」水禽 画・関根雲停 
 
カモ目カモ科マガモ属 日本には越冬のため飛来する極東の鴨である。全長オス54センチ、メス48センチ。  「くまさかあいさ」とは 仙台地方の方言である。東京国立博物館蔵

「白狸 しろたぬき」船橋九五郎・絵 拡大表示 

  おそらく『禽婦ー山禽1』堀田正敦編に収録されていた白狸であろう。昔より白い動物は、縁起が良いとされたようだ。白い狸は、突然変異ではなく、もともとそのような個体があるという説がある。狸と言うより、犬のように見える。添書きには、『薩州隠居栄翁(島津重豪)より献上、文化八年十一月十日御用部屋にて一覧船橋久五郎写す』(下記参考)東京国立博物館蔵

この図譜を書いた絵師 船橋久五郎  
  船橋久五郎は、文化8年頃(1809)の幕府奥御右筆である。堀田正敦の命により堀田禽譜の絵をかいた船橋政五郎の息子である。右の画中に『薩州隠居栄翁(島津重豪)より献上、文化八年十一月十日御用部屋にて一覧船橋九五郎写す』(長岡由美子筆)とある。これにより、船橋親子の堀田正敦との関係が見いだされた。(参考・『国立科学図書館叢書−1 日本の博物図鑑 十九世紀から現代まで』国立科学図書館編 東海大学出版会 2001年刊)

狩野良信木版画ドクハ鳥
 
狩野良信の描く「ドククハ鳥」  
  堀田正敦の原画には、『福岡候曰く、この鳥は深山に棲む山鵲(さんじゃく)の一種である。』とあるが、解説では残念ながら不明の鳥となっている。(『江戸鳥類大図鑑』平凡社)

狩野良信とは、本名吉沢幽平、表絵師・根岸御行松狩野家であり、狩野寛静良信(かのう かんせいよしのぶ)文政9年(1785〜1827)である。浜町狩野家の融川寛信の門下生である。(参考『別冊太陽 日本のこころ 131号 狩野派決定版』平凡社 2004年刊)
 東京国立博物館蔵
堀田禽譜_山禽 堀田禽譜_林禽・他

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