『日本の鉄道草創期ー明治初期における自主権確立の過程』林田治男著 発行所(株)ミネルヴァ書房2018年発売 定価3500+税
この本は、明治初年に多大な貢献をしたイギリス人鉄道技師・エドモンド・モレルの生涯と日本の鉄道を方向ずけた詳細を記録したものである。当時のイギリスの一次資料を現地調査、明治期の資料調査を行い確かなものにした。日本の鉄道草創期を知る定番の書物である。時代を経るにつれ、鉄道史においてもエドモンド・モレルに触れない本も見かけられる。明治初期の御雇外国人が日本に残した貢献を忘れてはならない。このページも『エドモンド・モレル』本を参照している。特に貴重な口絵の写真(下)を紹介させて頂いた。
●明治政府はイギリスの資金援助と技術を得て鉄道建設を行うことを決定した。100万ポンドのポンド借款である、今の為替相場と違い1ポンドが2万円ほどであった、その内30万ポンドが鉄道建設に使われた。明治3年(1870)4月9日に鉄道技師エドモンド・モレルとハリエット夫人含め、鉄道技師18名(別の説では26名)が来日した。彼には建築技師長として新橋横浜間及び大坂神戸間の事業を行うことを依頼した。
1.モレルは日本の将来を見据えて、民部兼大藏少輔の伊藤博文に「工部省」の設置や「工部大學校」の設立を提言して後に設立された。
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2.モレルは、民部大蔵大輔の大隈重信と相談し軌間を決めた。それはイギリスと同じ三フィート六インチ(「三ー六軌間」、1,067 mmの狭軌)である。(決定には諸説あり)また、レールの形状、枕木の選定、六郷橋を木製の形状にしたのもモレルである、日本の国力を考えての事であったが、予想以上にもろかった。六郷木製鉄橋はモレルの死後、ボイルにより造られた。
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3.モレルの的確な指示により工事は順調に進んだ。イギリス人鉄道労働者は、初期の頃は、東京築地鉄炮洲居留地(現在の中央区築地六丁目付近)に建てられた東京築地ホテルが宿舎であつたらしい。測量が品川から始まると長應寺(旧オランダ公使館)を宿舎とした。横浜は野毛浦(現在の桜木町辺り)に建築技師長宿舎を建築し測量を始めた。
『日本の鉄道草創期ー明治初期における自主権確立の過程』本ー口絵写真
●工事中の六郷橋、イギリスより全ての橋脚部品を運び、その組み立ての職人も連れてきた。写真を見ると「組み立て足場」も鋼材製で、現場で組み立てが可能のようだ、自在に組立てが出来ると思われる。川中にあるのは下記の設計図で造られた橋脚部分。日本人の職人にはイギリスとの文明の差を感じたことであろうが、必死に学んだ。 ●井上勝はモレル達に学び、『明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と同時に工部権大丞を拝命。翌明治4年(1871年)7月23日には工部大丞に昇進すると鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(8月15日以降)、後に鉄道頭専任となるなど、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。』(ウィキペディア) |
六郷川鉄橋架替工事設計書 (横浜の開港資料館)
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●明治3年3月19日、「鉄道掛」事務局が築地に設置され、同月22日、横浜の野毛町に横浜出張所が設置された。この時、鉄道掛(鉄道局)の人的構成は日本人256名、外国人150名であり、外国人の報酬は30パーセント程を占めたという、将来ため日本人が鉄道技術を学ぶことが急務であった。
明治8年建築技師長R・V・ボイルが設計した、六郷川鉄橋架替工事設計書が横浜開港記念に3枚残されている。ボイルは、鉄道創業の建設計画にに多大な貢献をした初代建築師長エドモンド・モレルの後任として明治5年から10年まで在職し、六郷川の他に京都・神戸間の工事を指導する。また、信越線、尾張線などの調査して基礎計画を推進した。
●エドモンド・モレルは鉄道の完成を見ることなく、明治4年(1871)9月に病没、彼の妻も12時間後に悲嘆から死亡したと言われる。鉄道事業は副長イングランドが引き継いだ。また、明治4年には井上勝が日本人の鉄道頭になり、徐々に鉄道事業は日本人へ移行した。(注)モレルの妻が日本人であると言う説があるが間違いである。(この本がイギリスで結婚証明書を発見した)
●モレルと共に来日した18名のうち病死4名、病気のため辞職3名、2名が日本に帰化、2名が工事終了後も日本に移住して日本で死去する。横浜の外人墓地に8名の墓と彼らを顕彰するする碑文がある。
1.エドモンド・モレル(建築師長)
2.ジョン・イングランド(建築副長)
3.ジョン・ダイアック(建築副長)
4.セオドラ・シャン(建築副長)
5.チャーレス・キングストン(鉄道巡査取締役)
6.ヘンリ・ホートン(客車荷車頭取兼組立役)
7.セオボールト・パーセル(医官長)
8.エドウィン・ホイーラー(医官)
(JR東日本が平成3年10月14日に立てる)エドモンド・モレルは鉄道記念物に指定されている。他の7名は準鉄道記念物に指定されている。
●イギリスの職人達は何処に宿泊したか
六権鉄橋の建設が本格化する、そのため、イギリスより大量の技術者が来日した。 リチャード・フィッカード・ボイル(Richard Vicard BOYLE) 設計、及び、テオドール・シャン(Theodore SHANN)。彼らは、宿泊地から六郷川工事現場に通った、初期の鉄道建設からイギリス人モレル達のため、休息所として大森に引き込み線を造り客車を停めた。 明治9年(1876)、この場所が複線化を見据へた大森駅の新設となった。彼ら鉄道技術者が鉄橋工事近くの六郷川崎宿の藤屋旅館に宿泊して工事現場に通ったと、藤屋旅館の子孫の方が話しておられる。どのような食事や生活を送っていたか興味が湧く。
●明治10年(1877)11月、イギリス技術者によりポニー型ワーレントラスの六郷鉄橋が完成した。新たな鉄橋の設計者は鉄道省の雇建築師シャーヴィントンと雇建築助役のシャンで、製作は英国リバプールで行われた。
全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。木橋の時期は単線だったが、鉄橋に改架された際同時に複線化が図られた。明治10年(1877)11月に完成したこの鉄橋は、明治45年(1912)まで35年間使用された。(『多摩川誌』建設省関東地方建設局京浜工事事務所多摩川誌編集委員会 企画・編集 出版者 河川環境管理財団 出版年月日1986)
複線化の工事も始まり、上り線工事が大森駅近くから始まり、これを汽車から見たのがアメリカ人エドワード・シルベスター・モースである。工事中の斜面に貝殻が堆積しているのを見た、貝塚の発見である。大森-川崎間は明治12年(1879年)3月1日、次いで、品川-大森間は翌明治13年(1880年)11月14日に複線化された。
明治13年(1880)の大森付近地図。駅右側の引き込み線がモレル達の休息した場所。左側の斜面(赤色)が複線化のため削られた。その場面が下記のイラストである。