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『日本の鉄道草創期ー明治初期における自主権確立の過程』林田治男著 ミネルバ書房 2009年刊 本の口絵写真 本書は、明治初年頃の鉄道建設史を明らかする労作である。 ●上の写真は、六郷橋鉄橋の完成間近かと思われる。まだ、完全なポニー型ワーレントラスト桁が完成していない。橋の全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製。鉄橋はポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、川床の避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。写真を見ると、汽水域の川床全体は大雨の水が溢れている。 多摩川氾濫の記録を見ると台風ごとに氾濫が起きたようで、明治6年9月の台風被害では、汽車が不通になっている。写真では木造鉄橋は撤去されているので、明治8〜9年頃、開通間近の写真と思われる。(建設省 京浜工事事務所資料から) 六郷橋全景 六郷橋左部分 六郷橋右部分 |
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「六郷鉄橋」(『旅の家つと』12号 光村写真部発行 明治31年から35年に発行)国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 ●上の写真は、明治13年(1880)、複線化が完成した後の六郷鉄橋である。おそらく現存する唯一の六郷鉄橋写真であろう。六郷川の川中に橋脚が三基、川床(避溢橋部分)に三基の橋脚が確認できる。今までは正確な橋脚の数は不明であった。下の浮世絵のような資料しかなかった。 「六郷蒸気車鉄道之図」 昇斉一景 明治4年(1871)大田区立郷土博物館蔵 |
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●下の写真は開業から使われた木造の六郷橋橋梁である。明治8年頃と思われる。川崎側からみたところ。この橋は、エドモンド・モレルが日本の木材を使いイギリス人職人が完成させた。しかしエドモンド・モレルが期待した強度はなく、開業当時から振動が乗客に不安を与えた。そのため鉄橋にする事が決定された。(写真・大田区立郷土博物館蔵・須山長太郎氏所蔵のアルバムから) 明治3年10月(1870)着工、翌年7月完成、橋梁部分の長さ624メートル、材料は丸太である。(参照・『新日本鉄道史 上』鉄道図書刊行会 昭和42年刊) ●明治5年5月7日(1872)、品川と横浜の間を結んだ官営鉄道が開通した。品川と横浜の運賃は「上等93銭、下等31銭」である。同年9月12日には、新橋と横浜間が開通した。明治天皇も行幸され盛大な開通式が行われた。横浜までの所要時間は53分、運賃は「上等1円50銭、中等1円、下等50銭5厘」で大変高価だった。(参照・『日本鉄道史』鉄道省) 上記の浮世絵は出来上がった橋梁を書いたものでなく、想像の産物であるため、橋脚の形態や本数が違う。完成した六郷鉄橋を見る。 最初は、日本人で造ろうとしたが無理のため、断念して英国の資金(ポンド借款)と技術(イギリス人技術者)に頼ることになった。明治3年(1870)に始め、開通は5年(1872)となった。開通当初は木橋で、鉄橋の完成は明治10年(1877)である。絵でわかるように人の渡る橋はなく、いまだ渡船である。上の錦絵に描かれた鉄橋は架け替えののち、愛知県犬山市の『明治村』に一部移築された。その姿は、明治村ホームページで見ることが出来る。 |
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●http://www.meijimura.com/ 明治村アドレス・歴史的建造物をご覧ください。 | ||||||||||