日本美術界の至宝 琳派の流れを汲む巨匠・尾形光琳


尾形光琳『紅白梅図屏風』MOA美術館所蔵 国宝 
素材・技法 紙本金地著色 二曲一双 サイズ 各 156.0×172.2p
「MOA美術館」ホームページの解説より
『光琳が宗達に私淑し、その画蹟に啓発されながら、独自の画風を築き上げたことはよく知られている。水流を伴う紅梅・白梅の画題や二曲一双の左右隻に画材をおさめる構成のやり方がそれである。しかし、白梅の樹幹の大部分を画面外にかくし、紅梅は画面いっぱいに描いて左右に対照の妙をみせ、中央に水流をおいて末広がりの微妙な曲面をつくり上げた構図は光琳の独創ということができよう。後に光琳梅として愛好される花弁を線書きしない梅花の描き方や蕾の配列、樹幹にみられるたらし込み、更に他に類を見ない卓越した筆さばきをみせる水紋など、こうした優れた要素が結集して、画面に重厚なリズム感と洒落た装飾性を与えている。本屏風が光琳画業の集大成であるといわれる所以であろう。向かって右隻に「青々光琳」、左隻に「法橋光琳」と落款があり、それぞれ「方祝」の朱文円印が捺されている。光琳晩年の作と思われ、津軽家に伝来した。 平成二十三年、デジタル顕微鏡、ポータブル蛍光X線分析装置、ポータブル粉末X線解析計による科学調査を実施した。その結果、屏風全体を占める金地には金箔が用いられていることが確認できた。また、水流の部分には一面に銀が残存し、黒色部分より硫化銀が検出されたことから、銀箔を硫黄で硫化し黒色に変化させたことが推測される。』
「八橋蒔絵硯箱」東京国立博物館所蔵 
縦27.4_横19.7_高14.7p 国宝



光琳独自の意匠、橋がぐるりと硯箱を取り巻く。二段重ねの上段を硯箱、下段を料紙箱とする。全く時代を感じさせない現代的なデザインである。「伊勢物語」に題材を取り燕子花と橋だけで構成された尾形光琳蒔絵の傑作であり、本阿弥光悦の蒔絵を継承しているが、尾形光琳である。
『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』国宝 紙本錦地着色 六局曲一双 
各150.9×338.8p
この題材は伊勢物語といわれている。非常に大胆な意匠である、コンピュータのコピーペーストのように同じ様な画が並ぶが、それを感じさせない軽やかな動きが素晴らしい。特に平面で無く、屏風として立てると燕子花は立体的に浮き上がって見える。この作品は光琳が法橋就任後の頃と考えられている。
 養源院は京都・三十三間堂の左隣りにある。江戸時代初期の建立で秀吉の愛妾淀殿が、父浅井長政の菩提を弔うため建立(文禄3年)した。しかし健築後ほどなく火災にあい焼失した。元和7年(1621)、二代将軍徳川秀忠の夫人お江の方の願いにより再建された。現在の養源院の本堂である。以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。この寺には尾形光琳の作品(松図 白象図 唐獅子図杉戸絵)が残されている。一説には養源院の画業が認められて、法橋就任が贈られたという。


「松図」俵屋宗達筆 重要文化財 養源寺 12面の襖絵の内2面が松図

 狩野永徳の松と比べてほしい、永徳の松が力強く天を支えるようであるが、光琳の松は枝が扇面のように優雅に舞う様でリズムがある。朝廷や貴族達は武士が好む猛々しい画風の狩野永徳を嫌ったようである。















写真の扇面は国立東京博物館に所蔵されている江戸時代の扇面である。踊る人間をリズムかるに描いている。折れ曲がる画面に絵を描く伝統は古来より京に受け継がれたようである。また、東福院和子が持ち込んだ小袖は写真のように、京の雅により素晴らしい小袖に生まれ変わった。和子は自分の侍女にも、宮廷の女官にも分け与え、朝廷と幕府の橋渡しを望んだ。おそらく江戸の大奥にも贈られたのではないか。幕府御用絵師狩野家は将軍の命令で扇面を描いた、褒美や贈答品として使用された。

  
右写真は『白綾地秋草模様小袖(しろあやじあきくさもようこそで)』重要文化財 一領 身丈14605×桁64.0p 東京国立博物館所蔵
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別名「冬木小袖」と言われ、江戸の材木商「冬木家」の妻女のために作られたと言われている。江戸で生まれた小袖が京都の意匠をまとい優雅に生まれ変わった。江戸の大奥や裕福な商人に熱烈に受け入れられた。華やかな元禄時代が生まれる。次ページに詳細  

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