●始祖日蓮は、「現世こそが仏の存在する寂光の浄土である、この世をより良くして民を救うことが大事であり、各人が自分の仕事で実現を目指す、そこに多くの芸術家(職人)が引きつけられた。」国宝「檜図屏風」狩野永徳 安土桃山時代(16世紀)東京国立博物館蔵 日蓮聖人が大田区池上の池上宗仲邸で入滅したのは、弘安五年(1282)10月13日のことであり、61才であった。当時の日蓮宗の状況は、弟子・信徒を合わせて数百人規模の東国数カ国に散らばっていた弱小の新興教団であった。(上の像は池上本門寺所蔵の祖師像) ●自分の死を悟った日蓮聖人は、日蓮宗の布教を六老僧(日蓮聖人の六大弟子)や弟子達に託した。日像(にちぞう)上人は臨終間際の日蓮聖人から京都の布教(帝都弘通)と天皇への布教(宗義天奏)を遺命された。京都で布教が成功すれば、全国展開も出来ると考えたのであろう。しかし、この時の日像はわずか7才であり、日蓮に直接師事し経一丸とよばれていた。そのため経一丸は日朗の弟子となり日像と名乗り、11年後の永仁元年(1293)に京都の布教(帝都弘通)を始めた、日蓮の死後13年、日像25才の時である。 (『日蓮を読み解く80章』監修・浜島典彦 ダイヤモンド社 2016年)右の本は、琳派400年を記念して行われた特別展覧会「琳派 京(みやこ)を彩る」(京都国立博物館が2015年10月10日(土)〜11月23日(月・祝休み)の記念出版で、日蓮宗の立場から解説したものである。監修者は身延山大学長・浜島典彦氏である。日蓮宗と京都町衆の関連がよく分かる。ー室町時代ー ●京都布教・日像上人の三黜三赦(さんちつさんしや)の法難 当時の東国出身の日像上人が、京都で布教することは並大抵のことではなかったと容易に想像できるが、その布教は功を奏して、京都の有力商工業者の帰依を受けた。しかし、布教が功を奏したことを裏付けるように、比叡山や他宗の圧力があり、上皇の命で流罪となり京都を追放された。2年後に許され京都に帰ったが、翌年には再び流罪となる。このように、三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けながらも京都の布教に尽力された。 ●日蓮が布教の成功を祈った、日像上人の妙顕寺が勅願寺になる。日像上人の妙顕寺に振り出しに、室町時代の京都の日蓮教団は繁栄する。室町時代は商工業と経済が発展するが、その資本をもつ商工業者が檀信徒となって日蓮教団も繁栄したのである。京都町衆の半分から七割ほどが日蓮宗となり、室町時代の日蓮系教団は京都の本山だけでも二十一寺を数えるまでになる。既存の宗教と違い、荘園や有力な貴族の寄進が無い日蓮宗は、町衆を後援者(団信徒)にして繁栄した。しかし既存の宗教である比叡山などとの軋轢は熾烈であった。 元弘三年(1333)、この妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願を託され、還幸が実現した。このことにより、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進され、次いで建武元年(1334)には、「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。さらに、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所となり揺るぎない地位を獲得した。天皇の綸旨を賜ることや、室町幕府の外護を受けることは、比叡山延暦寺の軍事的政治的圧迫を退けるのに奏功した面もあるであろう。ー戦国時代ー●特筆すべきは織田信長が上杉謙信に送った「洛中洛外図屏風」である、この屏風は、第13代将軍足利義輝が狩野永徳に制作を命じた屏風である。足利義昭の横死後、屏風は織田信長の手に渡り上杉謙信に送られた。そのため、絵の構成は上杉謙信が上洛して御所に将軍義輝を訪ねる物語であると言われる。画中の寺の多くが日蓮宗の寺であると言われる。都の日蓮宗の寺は21あり、何度も戦火で焼失したようである。織田信長が死んだ本能寺も日蓮宗の寺である。ー徳川時代ー 本阿弥光悦は、元和元年(1615年)に徳川家康から洛北鷹峯(鷹ヶ峯)の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住して、法華経「浄仏国土」の世界を実現すべく光悦村(芸術村)を築いた。光悦は、晩年の20年間をこの村で創作にいそしんだ。尾形光琳、尾形乾山、俵屋宗達などが後に琳派と言われる流派を形成した。彼は王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった。一説では、家康の真意は光悦を都から遠ざけようとする事にあったらしい。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の光悦寺となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。徳川家康が朝廷との絆になると婚姻を目指した計画は、秀忠の代に実現した、秀忠の五女、東福院和子(さわこ)が入内すると、和子は雁金屋に京の都に無かった江戸小袖を持ち込み造らせた。その小袖は朝廷の女官に贈られた。家康は狩野探幽の才能を見いだし、江戸に連れ帰り幕府御用絵師とする。江戸狩野家の誕生であり、260年に渡り江戸画壇を支配した。江戸時代には、町民にも日蓮宗が広がり、浮世絵師や歌舞伎役者に熱烈な信者を生んだ。 江戸の出開帳で信者を増やす 出開帳は各地の仏像を江戸の寺に運び、そこに信者が集まる祭りのようなものである。「江戸出開帳の四天王」と言われたのは、嵯峨清涼寺、成田山新勝寺、信州善光寺、身延山久遠寺(久遠寺)であり庶民に人気があった。日蓮宗久遠寺の出開帳も人気があったと言われる。江戸時代中頃から下町あたりの信徒に祖師像巡りが盛んになった。「十大阻止増祖師巡り」や「江戸八大祖師巡り」などである。祖師巡りでは、団扇太鼓に行衣(白い衣)姿で「南無妙法蓮華経」の題目と御首題帳を持つのが決まりである。現在の御会式の原型である。(参考・別冊太陽 日本のこころ「日蓮 久遠のいのち」平凡社 2013年) 「身延山参詣群集朝参図」 身延山久遠寺所蔵 下は第13代足利将軍義輝、狩野永徳に『洛中洛外図屏風』を発注する。