源為朝は江戸時代に講談や色々な媒体で大変人気のあった武将であるー1.

源為朝(1139〜1170)平安末期の武将
源為義の八男、保元の乱では父・為義と共に崇徳上皇側に付く。敗れて伊豆大島に流される。伊豆諸島で活躍、しかし、為朝に討伐の院宣がくだり、自害したとも首を切られたなどの諸説が説がある。

強弓ごうきゅうで知られ様々な伝承が創られた。自ら「鎮西八郎為朝」と称する。義経・義家と並ぶ人気があり様々な伝承が創られた。、為朝が大島から脱出して琉球に渡り、琉球王朝の先祖になったという伝説を生みました。また 沖縄県運天港近辺には為朝にまつわる史跡がいくつか存在します。

為朝の琉球渡来伝説は、江戸時代に曲亭馬琴により読本『鎮西弓張月 』(ちんせつゆみはりずき)が生まれた、『椿説弓張月』−1の葛飾北斎の挿絵も素晴らしく大好評を博しました。
( 左は菊池容齋の為朝)


「為朝譽十傑」画・一勇齋国芳 大英博物館所蔵
 滝川馬琴『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)から十人の英雄を選び、浮世絵にしたもの。10枚揃いと思われるが2枚が未詳である。





『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎・挿画の読本。文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行、全5篇。

『保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろう ためとも)と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。
登場人物・源為朝、白縫姫 (しらぬいひめ)、尚寧王(しょうねいおう)、白縫王女(しらぬいわんにょ)、八丁礫紀平治(はっちょうつぶてのきへいじ)、舜天丸(すてまる)、蒙雲(もううん)、崇徳院(すとくいん)。北斎の挿絵で大人気となった。

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