保元の乱、平治の乱を戦った摂津源氏の京武者源頼政 鵺(ぬえ)退治

『ぬえ 別に、恠鳥、奴延鳥』とも書く。
日本に伝承される妖怪。物の怪、動物である。外見は『平家物語』などに登場し、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。(ウィキペディア・Wikipedia)
 
また『源平盛衰記』では背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もある。また、鳴き声も怖ろしく不吉であると考えられ、平安貴族に大変恐れられた。横溝正史原作の映画「悪霊島」でも「鵺の鳴く夜は怖ろしい」との台詞がありよく知られた空想上の動物である。
 
源頼政(1104〜1180)源三位、馬場頼政
 
摂津源氏源仲政の長子、保元の乱では、平氏清盛側につき、源氏としては異例の従三位に昇進、公卿になる。これは清盛の引きによると言われる。清盛の死後、以仁王の令旨を源氏に伝え挙兵するが、平氏の追討を受け宇治平等院の戦いに敗れ自害する。

詞書(現代語訳)
 源仲正(政)の子、兵庫頭に任じられ、入道して頼円と号す。和歌に巧みで、武にも優れていた。近衛院御在位の頃、怪鳥を射落として栄誉を得た。源義朝が滅び、平家が跋扈する世となった治承年間に高倉宮(以仁王)とともに平家を討とうとして挙兵し、宇治川で敗れて平等院で自刃した。享年七十五才。



絵は頼政の若き日の武勇伝、鵺(ぬえ)退治 を描いたもの。近衛天皇の時代、夜に内裏に怪物が現れ天皇を悩ました、源義家が怪物を弓で追い払った故事にならい、頼政に退治を命じた。頼政は家来の猪早田(いのはやた)とともに一矢で射止めた。怪物は頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の形をした動物であった。また、頼政は歌人としても優れていた。
『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)
「大日本名将鑑 源三位頼政」画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵  拡大表示



「鵺退治」画・一勇齋国芳(歌川国芳)ボストン美術館所蔵


「木曾街道六十五次之内 京都 鵺大尾」画・一勇齋国芳 ウィキペディア 拡大表示
ー浮世絵
頼政により殺された鵺の死骸は切り刻まれて丸木舟で鴨川に流され。着いた所には祟りが発生したと言われる。それが兵庫県の芦屋と大坂の都島であり、鵺塚としてしられる。
国芳の浮世絵について
旅の僧により回向され成仏した鵺は、頭は猫か猿のよう、手足は虎のような姿の動物が現れる鵺の正体である。


「新形三十六怪撰 内裏に猪早田太鵺を刺図」 画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵 拡大表示

『平家物語』巻第4の「鵺(ぬえ)」に題材をとったのが、世阿弥の「鵺」(能)である。
ーあらすじー
 『摂津国芦屋にさしかかった旅の僧が、化け物が出ると言われる州崎の御堂に泊まっていると、闇の中からうつふは舟(丸木舟)に乗った怪しげな男が現れ、自分は、平安末期の頃、源頼政に討たれた妖怪 鵺の亡魂であることを明かし、その時の様子を語ると、舟に乗って消え去ってしまう。』
『 僧が弔っていると鵺の亡霊が姿を現し、自分を討った頼政が名を上げ、天皇から褒美をもらったこと告げる、鵺の亡霊は迷いの道を彷徨っていることを明かし、鵺の亡魂は救いを求めて彷徨い続けます。この人間の弱さは「心の闇」にどこか通じているのではないでしょうか。』

 
頼政は天皇より「獅子王」と名のある 御剣を下賜される。この時、左大臣藤原頼長が「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」と詠みかけると、「弓張月の射るにまかせて」と応じた、見事な対応に認められたとの伝承がある。また、この時に下賜された「獅子王」の剣は現存し、重要文化財になっている。(参照・『闘争と鎮魂の中世』鈴木哲・関幸彦著 山川出版社 2010年)



国立国会図書館所蔵の【百鬼夜行】鳥山石燕画の妖怪図集解説。


  半紙本3巻合1冊。安永5年(1776)春原板、文化2年(1805)旧板で、元は伊勢洞津の長野屋勘吉。初板の板元は、江戸の出雲寺和泉掾と同じく遠州屋弥七である。

  内容は、自跋に「もろこしに山海経、吾朝に元信の百鬼夜行あれは、予これに学てつたなくも帋筆を汚す」とあり、中国最古の地理書『山海経』や狩野元信の『百鬼夜行』を基に、和漢の妖怪100図を描いたとするが、他にも『百物語評判』や『和漢三才図会』を参照したことが確実視される。
  天狗、山姥、犬神、猫また、河童、狐火、姑獲鳥(産女)、その他、伝統的な妖怪に加え、網剪、鳴屋、反枕など、怪奇現象を巧みに図像化したものや、野寺坊や高女など、出処未詳の妖怪図もある。絵は、薄墨を多用して、妖怪らしい凄絶感を漂わす一方、俳諧的な滑稽味を効かしたものもあり、石燕の機知と技量がいかんなく発揮され、妖怪の図解書として広く人気を集めた。
 
 【百鬼夜行拾遺】鳥山石燕画の妖怪図集。半紙本3巻合1冊。安永10年(1781)春原板、文化2年(1805)求板で、求板元は伊勢洞津の長野屋勘吉。初板は、江戸の出雲寺和泉掾と遠州屋弥七の相板元。墨摺り(薄墨入り)。安永5年に出された『百鬼夜行』『続百鬼』の拾遺。『百鬼夜行』に比べて、やや馴染みの薄い妖怪を取り上げることが多いせいか、その由来を簡略な詞書きで補う。たとえば「燭陰」について、「山海経に曰、鍾山の神を燭陰といふ、身のたけ千里、そのかたち人面」云々など。また、謡曲で知られる「紅葉狩」や「殺生石」、『源氏物語』の「朧車」(車争い)や『伊勢物語』の「鬼一口」など、著名な古典に取材したものもある。和漢の文献や民間伝承を博捜しながら、オリジナルな発想を加味し、多様な妖怪図を描出しており、苦心の跡が窺える。(鈴木淳)
〈参考文献〉高田衛監修、稲田篤信、田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』1992年12月、国書刊行会。
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