鎌倉時代の武士団
源頼朝挙兵時の板東武士団(東国)支配地と動向

沙汰未練所さたみれんしょ』(続群書類従・第25輯上)によれば、鎌倉時代の御家人とは「往昔以来、開発領主として、武家御下文を賜る人のことなり」と記されるように、「開発領主(根本領主)、すなわち私領の実際の開発者またはその末裔であって、その所領を鎌倉将軍から安堵され、主従関係のもとに結合された人々である」と説明されている。

畠山重忠畠山次郎重忠(しげただ)、頼朝挙兵時は敵対するが、長井ノ渡しで頼朝の傘下に入り、頼朝の忠実な御家人となる。頼朝の死後、北条時政の讒言により討たれる。
豊島清光豊島権守清光は他の秩父氏と同じく、長井ノ渡しで頼朝の傘下に入り秩父氏の江戸重長の説得を命じられる。現在の北区隅田川が所領であり、頼朝も動向を気にしていた。
河越重頼 河越重頼は武蔵野国入間郡を所領していた。秩父党の総領家が代々受け継いできた「武蔵国留守所総検校職」にあり、武蔵国の軍事統率権を有する同国の最大勢力である。
小山田有重小山田有重は、畠山次郎重忠の弟である。武蔵野国南多摩郡小野田庄を本拠地にしたと言う、早い時期から鎌倉の御家人となる。
稲毛三郎重成稲毛三郎重成は、畠山次郎重忠らと共に鎌倉御家人となる。現在の多摩地方に稲毛と地名が残る。また、彼の妻の追善のため相模川に架橋する、この時の落成供養に源頼朝が臨席し、帰途に落馬し不慮の死を遂げた。
榛谷重朝榛谷重朝(しんたにしげとも)は稲毛三郎重成の弟である。弓馬に優れ頼朝の信頼された。畠山次郎重忠を讒言したとして稲毛三郎と共に討伐され滅んだ。
江戸重長江戸重長は河越重朝の近い関係である。12世紀前半に武蔵野国荏原郡臨海の要地を占める、江戸郷と呼ばれたらしい。大田区の海岸線の大部分が含まれと思われる。現在の皇居あたりが本拠地と思われる。子孫には、喜多見、柴崎、丸子、六郷、竹沢の名字がある。
豊島清光豊島清光は現在の城北・城西の地区を占めた、秩父一族の庶流である。伝承によれば豊島近義が源義家に仕えたと言う。
葛西清重現在の葛西地域、12世紀後半には二所大神宮御厨(みくりや)があったと言われる。三十三郷からなる在地領主である。頼朝の命令で秩父一族の説得・帰伏を成功させた。
足立遠元源義朝のもとで戦い、河内源氏累代の家人である。足立遠元が所領する土地に、頼朝が安堵状を発給したのが初めである。彼は頼朝を迎えに長井ノ渡しに参上した。
大河戸広行源氏相伝の荘園・安房国丸御厨は現在の埼玉と足立に跨がる御厨である。大河戸広幸は在地領主である。
比企藤四郎能員武蔵野国比企郡、比企海尼の甥であろう。比企尼の頼朝に対する献身のため、比企一族は特別な御家人であった。奥州合戦では北陸道の大将軍を努める。二代将軍頼家につくが北条時政に敵対して滅びる。

熊谷二郎直実 武蔵野国大里郡熊谷郷が本拠地である。源家累代の家人である。鎌倉御家人の見本である、「もののあわれ」を知る武士として描かれる。武蔵武士の私市党と結びつくと思われる。武蔵七党の中でも最大である。阿久原(現在の児玉郡)が本所である。

児玉党日奉氏の日奉宗頼が武蔵野守となり下向して始まったとあるが確かではない。有名なのは平山武者所季重(鎌倉御家人)である。武蔵国府の西部地域(府中市)多摩川流域。平山武者所季重
西党西党(にしとう)は、平安時代から戦国時代にかけて武蔵国西部、多摩川流域を地盤とした武士団である。いわゆる武蔵七党のひとつで、武蔵守日奉宗頼を祖とすることから日奉党(ひまつりとう)ともいう。一族には一ノ谷の戦いで有名な平山季重が居る。(ウィキペディアより)
猪俣党岡部六弥太忠澄は武蔵野国大里郡岡部(埼玉県深谷市岡部町)を本拠とする、猪俣党の庶流である。「平家物語」によれば清盛の弟である平忠度(ただのり)を討ったのが岡部六弥太忠澄である。
野与党 桓武平氏に系譜を引くと言われたのが、野与党と村山党である。鬼窪・白岡氏(南埼玉郡)、金重、(岩槻市)笠原氏(鴻巣市)多賀谷氏(北埼玉郡)。
村山党金子十郎家忠は、武蔵野国入間郡を本拠とする村山党の庶流。村山党は西多摩郡・北多摩郡・入間郡に渡る本拠地である
横山党横山党は12世紀前半には、南武蔵一帯に進出していた。安保氏一族は頼朝挙兵以来、有力な御家人となる。
丹党丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の一つである武士団。(ウィキペディアより)
私市党秩父・児玉・入間郡の武士。私市党(きさいとう)は北埼玉郡を中心とする武士団である。太田市、久下氏、成木氏など(参照『鎌倉の時代』編者 福田豊彦・関 幸彦 山川出版社 2015年刊)