御家人葛西清重の支配する葛西御厨は中世交通の要衝である


葛西清重とは秩父一族の庶流にあたるらしい。「豊島系図」などによると、『後三年の役で東征する途中、源義家は武常の子豊島近義の館に宿泊したという』とあり、義家の頃からの源氏の家人であったらしい。(有隣新書『武蔵野武士団ーその設立と故知を探る』安田元久著 有隣堂 昭和59年刊)

 源頼朝の挙兵から参集を求められており、「長井の渡し」でも彼に江戸重長の動向や参集の説得を命じている。以後、頼朝の信頼あつい御家人となった。彼が支配していたのが葛西御厨みくりやである。伊勢神宮領荘園として中世に成立しており、いくつかの古文書に御厨の範囲や田数の記載があり、34〜38の郷村であり、現在に当てはめると葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区の4区になる。

御家人・葛西清重の活躍、治承4年(1180)の佐竹征伐では、帰路に頼朝が清重の館に泊まり現大田区の丸子庄を与えられた。
  奥州合戦後に胆沢軍・磐井郡・牡鹿郡などを与えられ、頼朝より「奥州所務」を命じられる。疲弊した奥州の処理である。後にこの職務は「奥州惣奉行」と言われた。  笠御清重は頼朝の死後も40年間も忠実な御家人として仕え、常に主流派であった。 鎌倉後期には、葛西一族は奥州に移住したらしい 。
(参照)葛飾区郷土と天文の博物館シンポジウム報告書 『東京低地の中世を考える』1995年刊より
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