源頼朝の鎌倉入りを阻み、隅田川河畔で対峙した江戸重長

江戸重長(江戸氏二代)  彼は源頼朝が鎌倉に進むため、武蔵の国・隅田川を渡河しようとするのを阻止した。その後、同族の葛西清重の説得に応じて頼朝に臣従を誓う。頼朝も彼の実力を認め、武蔵国の国衛の長官に任じています。

『長井の渡』の渡河 治承五年(1181年)
 『十月二日、頼朝は隅田川渡河を強行した。そして四日には長井渡をわたって滝野川・板橋と進み、武蔵の国府(府中)から相模に入り、七日、鎌倉に到着した。 江戸重長が頼朝の前に参上したのは四日である、長井の渡に現れた。彼の釈明によると、重長が以前討った三浦義明の子義澄が頼朝の陣営にいたからということであった。頼朝は義澄を説得してから、重長の参陣を許した。
 一方、「義経記」によると、このときの隅田川について、海からは潮が満ちあげ、上流では雨が降り続いたため下流一帯は大洪水となって両岸にあふれ、まるで海に見え、お陰で頼朝は五日間も足止めをくったと記している。その上で、 当時、隅田川を挟んで西岸地域では江戸重長、東岸地域では葛西清重がそれぞれ勢力を張っていた。重長が頼朝の信頼厚い清従の仲介により遅れて参陣すると、頼朝は彼に対し、水上に舟やいかだなどを並べ、その上に板を渡した橋、すなわち浮橋を作るように命じた。そこで大福長者と呼ばれていた重長は、丁度領地の石浜についていた西国からの舟数一千艘を取り寄せた。また、清重や千葉常胤も二人の領地である今井・栗川・亀無・牛島から海人の釣り舟を数千艘も集めて重長に協力した。こうしてわずか三日で浮橋は完成し、頼朝の軍勢を渡すことが出来たということになっている。』(台東区のホームページより)


「隅田川筏渡之図」朝桜楼国芳(歌川国芳)版元・泉市 嘉永五年(1852)頃  ボストン美術館所蔵 部分拡大
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