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本郷恵子氏の著作に「蕩尽する中世」(新潮社刊 2012年)がある。 本郷氏は「 中世が財貨を求めて争った時代」であるという、権門は富を得るため、相争い武士の武力を導入して天皇家・摂関家が争った、源氏も平家も一枚板ではなく、各家で権門に結びつき源氏同士、平家同士で争った。個人の富獲得争いである。院政がその中心にあり、 院政の強権により地方の財貨(荘園の富)が都の院のもとに集中する(地方から受領が運ぶ富)。 白河院はこれらの集まった富を蕩尽(とうじん)したのである。富を有用なインフラ事業に使うのでなく、私的な寺の造営や「金泥一切経書写」などに惜しみなく使用した。皮肉なことにそれらは、現在、観光資源として外人を含む多くの観光客を集めている。 都の軍事貴族平氏の台頭……源氏から平氏へ 『白河上皇が始めた院政(天皇の父方の血縁者が実権を握る政治形態)は、藤原氏の摂関政治(天皇の母方の血縁者が実権者となる政治形態)を乗り越えることを課題としました。そのため、上皇は藤原氏と緊密な関係にある源氏を忌避し 、上皇に忠誠を誓う、新たな武家の棟梁の出現を望んでいました。 それに応えたのが、乱暴を働く源義親(有名な八幡太郎の義家の嫡子)を討ち取って武名を上げた平正盛でした。』(「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊) ●世界でも同じような状況が現れる(ヨーロッパの中世) 武力による富を簒奪したのが中世のポルトガルである。(日本の蕩尽と同じ社会状況が出現)王家と宗教が結びつき、富を求め海に乗り出した。大航海時代の幕開けである。ポルトガルが先陣を切り、武力に長けたスペインが続いた。ポルトガルの最盛期にはその当時の世界の半分を支配下という。まさしく蕩尽(とうじん)するポルトガルである、わずか人口100万の国が富を集め、王家や教会が黄金を蕩尽した。 それを見た中世ヨーロッパの国々はより強い武器で乗り出した。獲得競争に乗り遅れたオランダは、香辛料を求め艦隊を派遣するが、アフリカ沿岸を航海する航路はポルトガルに押さえられているため、やむなくオランダ艦隊は、インド洋を横断する冒険に乗り出した。この冒険によりオランダは香辛料を独占する事が出来た。絶滅鳥ドードーが棲むモーリシャス諸島は、この時に発見され横断の中継基地として大きな役割をはたした。ヨーロッパ中世は略奪の時代である。大航海時代は黄金を産出しないヨーロッパが、アジアや南アメリカに植民地を求めて争った時代である。メキシコのトポシ銀山の銀がイギリス産業革命の原資になったと言われる。マルコポーロは奥州平泉の「黄金の館」を目指して『黄金の国ジパング』発見の航海に乗り出した。 ●『武士勢力の台頭によって、天皇制が危機を迎え、王家といえども、政争から超然とした立場を維持しえず、渦中に入って行動することを余儀なくされた。そのため天皇制を二分し、行動し、その結果、傷つく恐れのある治天の君と、儀礼的地位や神事主宰者としての伝統を守り、政治能力をもたず、行動せず、それ故に安泰を保証されている天皇との二重構造を作り王家が行動する中でも、天皇を安全なままに保ってきた。』(日本の中世 8「院政と平氏、鎌倉政権』上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次著 中央公論社 2002年) ●蕩尽された富(白河院が蕩尽した富、寺社造営)…… 大治四年(1129)7月15日 白河院の葬礼が行われた。『中右記』に白河院残した蕩尽の記載がある。
●『 過剰といえるまでに 精力的な造寺・造仏も、院政期の大きな特徴である。白河の地には、天皇の発願によってつぎつぎに五つの御願寺が創設された。これに待賢門院(鳥羽天皇の中宮)が発願した寺をあわせて、いずれも寺名に「勝」の字がつくために、六勝寺と総称する。』(全集 日本の歴史 第六巻『京・鎌倉 ふたつの王権』本郷恵子著 小学館 2008年刊) ●平安京の洛東・白河の地域に造営された寺号に「勝」の字が含まれた6つの御願寺の事であるが、女院である待賢門院が建立した円勝寺は後から付け加えられたもので、当初は「五勝寺」と称されていた(愚管抄)、円勝寺以外の寺は、白河天皇以降の天皇が在位中に建立を始めた。円勝寺以外の寺は、白河天皇以降の天皇が在位中に建立を始めた。しかし、いずれも災害や院政の衰微により応仁の乱以後廃絶して今は無い。 1.法勝寺、落慶は承歴元年(1077)左大臣藤原師実の寄進と白河天皇の御願による、最初に創建された御願寺である。 2.尊勝寺(そんしょうじ)。供養は康和4年(1102年)、堀河天皇の御願による。 3.最勝寺(さいしょうじ)。創建は元永元年(1118年)、鳥羽天皇の御願による。 4.円勝寺(えんしょうじ)。落慶は大治3年(1128年)、待賢門院(藤原璋子)の御願による[2]。六勝寺では唯一の女院御願寺である。 5.成勝寺(じょうしょうじ)。供養は保延5年(1139年)、崇徳天皇の御願による。保元の乱で流刑に処された院を慰撫するための御八講法要が行われた。 6.延勝寺(えんしょうじ)。落慶供養は久安5年(1149年)、近衛天皇の御願による。(参照・ウィキペディア) また、院政期で始まった事に寺社の強訴がある。比叡山延暦寺や大和興福寺は寺のシンボルを押し立てて院に迫った。強訴に対抗するために導入されたのが武士である。院庁の付属機関として院北面が設置された、有名な北面の武士である。ここに起用されたのが上記の伊勢平氏・平正盛である。白河院は自分の権力を守るため武士の武力を導入した。武力により朝廷(権力)が左右される時代の始まりである。 鳥羽院の治世……大治4年から保元元年(1129〜56) 『皇族や有力近臣が諸国の支配・経営権を 院から与えられて知行国主となり、自分の近親者や配下の貴族を国司(こくし)に任ずる仕組みである。』(本郷恵子 2008年)、鳥羽院政期には新しい荘園が増える、これらの荘園には院庁符牒・院庁下文が発給されるようになり、院の高権による荘園承認の図式が明確化する。 鳥羽院のあとは後白河天皇が誕生した。 |
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今様狂いの後白河院、天皇にはなれないと思われた人 『後白河院は多くの戦闘にさらされるのみならず、時に幽閉され、時に脅かされるなど、危機的な状況をかいくぐりながら、何とか政権を維持したのである。彼の政治運営は、良く言えば柔軟、悪く言えばまったく定見のないものであった。中略、武士が京都政界に進出し、武力が全国を席巻し、ついに鎌倉に武家政権の成立を見るという激動の時代を、とにもかくにも生き抜いた人物が後白河院だったのである。』(『蕩尽する中世』本郷恵子著 新潮社 2012年) |
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●院政期を考える……日記『玉葉』の作者 九条兼実から |
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●日本国家第一の大天狗……源頼朝の言葉 |
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●保元の乱……後白河院と崇徳院・藤原頼長の戦い 後白河院方は源義朝・足利義康・平清盛に検非遺使(けびいし)や衛府(えふ)などの武士を鳥羽院の崩御前から集めて体制を整えていた。対する崇徳院・藤原頼長方は源為義・頼賢・為朝や平忠正など近臣の武士だけであった。保元元年(1156)7月11日に戦いは、始まりからわずか数時間で決着した。 藤原頼長は、一時逃れたが受けた傷が原因で死亡、崇徳院は捕らえられ讃岐国に配流されて8年後に崩御した。のちに崇徳院は怨霊となり都を悩ませたとの伝承が生まれた。 権力争いに武力が持ち込まれ、肉親同士で戦い敗者を斬首にするという、武力が政権を左右する時代に突入する。勝利した後白河方では、前少納言にすぎない官位の藤原信西(しんぜい)が天皇高権のもとに、保元元年(1156)に「七か条の新制」を公布して、全国を再編成することが宣言された。この信西と組んで勢力を伸ばしたのが平清盛です。 ●摂津源氏の源頼政は「保元の乱」 では後白河院側につき、「平治の乱」では平清盛側につき、源義朝と敵対して源氏の凋落を招いた。その頼政が以仁王と共に平氏打倒の狼煙(のろし)を挙げた。 ●崇徳上皇の怨霊 崇徳は何故怨霊になったのは、後白河院が崇徳上皇に対し、天皇家が受けるべき国葬礼を取らなかった事による。崇徳上皇は爪も切らず、髪も切らず、伸ばし放したために、生きながら天狗のようになったと『太平記』は伝える。 ●怨霊と化した崇徳天皇 一勇齋国芳 東京都立図書館所蔵 拡大表示 |
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平治の乱……平清盛、ただ一人が勝利者となる。 ● 保元の乱以後、各自の利益が対立し、 信西一門、二条親政派、後白河院政派の三つのグループが生まれた。 1.信西一門と平清盛 2.二条親政派とは、美福門院と二条天皇 3.後白河院政と藤原信頼と源義朝 ●三条殿焼討…… 二条親政派と後白河院政派は対立していたが、反信西という店では一致していた、そこで平治元年(1159年)12月、平清盛が熊野参詣に行った隙に、京都が軍事的空白になると反信西派はクーデターを起こした。三条殿の焼き討ちである、後白河院達は身柄を確保される。信西は山城国田原に逃げたが見つかり首を切られ獄門にさらされた。 |
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●「平治物語絵巻 三条殿焼討」模本 国立国会図書館所蔵 狩野栄信・狩野養信・養福作 ボストン美術館所蔵の模本 (47.6×721.2) |
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●「平治物語絵巻 二条天皇脱出する」ボストン美術館所蔵 |
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平治物語絵巻について…国立国会図書館解説 『平治物語』を絵巻にしたもので、江戸時代の住吉派の画家・住吉広行(1755-1811)による模写。原本を絵、詞書とも忠実に模している。原本は鎌倉時代中期(13世紀後半)の作とされ、三条殿焼討巻は現在ボストン美術館、信西巻は静嘉堂文庫の所蔵。住吉家の当主は代々内記を名乗り、幕府の御用絵師を務め た。古画の鑑定もしばしば行い、『住吉家鑑定控』(東京芸術大学所蔵)が残る。これによれば、広行はこの模写の日付と同じ寛政10年5月25日に、当時本多家所蔵の「平治物語絵詞」を見て、住吉法眼慶恩画、詞書は家隆卿筆と鑑定している。 (国立国会図書館) ●国宝 指定名称:紙本著色平治物語絵詞 1巻 紙本着色 42.2×952.9 鎌倉時代・13世紀 松平直亮氏寄贈 東京国立博物館(東京国立博物館ホームページより) 『平治物語』を絵巻としたもの。『平治物語』は、保元の乱(1156年)に戦功のあった源義朝と平清盛との勢力争いに、藤原信頼と藤原通憲(信西)との抗争がからんだ平治の乱(1159年)を叙述する。「六波羅行幸巻」は、内裏に幽閉された二条天皇が脱出を図り、清盛の六波羅邸に逃れる場面。天皇と中宮が乗る牛車の簾をはね上げて中をあらためる武士たち(第1段)、美福門院の御幸(第2段)、馳せ参じる公家衆(第3段)、事態を知って狼狽する信頼(第4段)を描く。人物の集団の大小・疎密、その配置の仕方など動きのある群像表現、きびきびした描線と美しい色彩によって、動乱の緊迫した状況を見事に描ききっている。 15世紀中ごろ、比叡山延暦寺の西塔(さいとう)に「保元絵」15巻と共に「平治絵」が秘蔵されていたことが知られ、現存の巻物はその残巻と見られる。「六波羅行幸巻」は、江戸時代には大名茶人として知られる松江藩主、松平不昧(まつだいらふまい)が所蔵していた。 |
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今様好きの後白河院は「絵巻」も好きだった。 『承安元年 (1171)、後白河院の発案で『後三年合戦絵巻』が作られた。現在、三巻に調巻されるこの絵巻には、比叡山の学僧玄恵が制作由来を述べた、承和三年(1347)の年記を持つ序文が付属する。後三年合戦を描いた現存唯一の絵巻で、年記が明らかな合戦絵として貴重である。』(「すぐわかる絵巻の見方」榊原 悟著 東京美術 平成16年刊) 『似絵(にせえ)』と言う絵画のジャンルを始めたのも後白河上皇である。 人物や牛馬の容貌を像主に似せて描いたもので、写実性・記録性が強い。したがって、尊崇や礼拝のために理想化された肖像画や禅宗における頂相などを似絵とは呼ばない。特色としては、細い淡墨線を引き重ねて目鼻だちを整え、対象となる人物の特徴を捉えようとする技法を用いていること、また、作品の多くが小幅の紙本に描かれていることが挙げられる。 『 玉葉』によれば、承安3年(1173年)に建春門院の発願で成った最勝光院御堂の障子絵には、常盤光長によって平野行啓・日吉御幸や高野御幸の有様が描かれたが、実際に供奉した公卿の面貌だけはその道に堪能な藤原隆信が手掛けたという。また、『吉記』によると、四天王寺の念仏堂には、後白河上皇の仰せによって、藤原隆能が描いた鳥羽上皇の御影(崩御後の供養像であろう)が安置されていたという。これらの作例は何れも現存しないが、似絵の先駆的作品として位置付けることが出来るものである。(ウィキペディアWikipedia ) 平安末期までは、貴族達は自分の姿が描かれることを嫌ったと言われる。それが変わったのは、後白河上皇の御幸に同行した貴族達の姿が、完成したばかりの最勝光院に障子絵となっていると話題になってからである。後白河上皇は、父・鳥羽法皇が没すると、その遺影を藤原隆能に描かせ、四天王寺におき参拝者にも公開した。彼は現実的な人間であったらしい。 ●後白河院の肖像画も別人だと言われる。(右上イラスト) 教科書などで見られる後白河院の肖像画は、『天子・摂関・大臣影』(鎌倉時代)によるものである。これと違うのは、京都妙法院所蔵の後白河院の肖像画である。姿がでっぷりとした下ぶくれの肖像画である。 |
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