鎌倉幕府 源頼朝も恐れた崇徳上皇の怨霊(おんりょう)

保元物語によれば、保元の乱により隠岐の島に配流になった崇徳上皇は、『いかなる前世の宿業か、かかる嘆きに沈むらむ。たとえ烏の頭白くなるとも、帰京の期を知らず,定めて望郷の鬼とぞならむ』と嘆いたと言われる。


隠岐の島に配流後、崇徳上皇は自らの血で「五部大乗経(ごぶだいきょう)」を写経し、後白河院に送るが赦されなかった。崇徳上皇は怨念を込め『日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん』との呪詛の誓文を書き海底に沈めた。
 
  これより時代は「武者の世」に移行してゆく、延応元年(1239)二月、配流になり19年、崇徳上皇は60才で崩御した。顕徳院の諡(しごう・おくりな)号が送られた。しかし、異変が起きた、吾妻鏡によれば、延応元年4月には天変地異が頻発、北条泰時の病、翌年北条時房が死亡、延応3年に病んでいた泰時が死んだ、最後は「前後不覚 遠気火ノ如シ、辛苦悩乱」と伝わる。怨霊説が流布する。その後、顕徳院は後鳥羽院と改められ、鎌倉幕府は鶴岡雪の下に新宮をつくり祭ったという。

怨霊となる崇徳上皇
『 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ』(崇徳上皇・ 小倉百人一首)、上皇は最大の怨霊であり、『保元物語』『太平記』『松山天狗』世阿弥の謡曲、上田秋成の『雨月物語 白峯山』で人々に親しまれた。崇徳上皇浮世絵


世阿弥「松山天狗」あらすじ……
  『西行法師が保元の乱で敗れ、讃岐の国へ流され崩御した崇徳上皇を弔うために、讃岐の国・松山にある御陵を訪ね、その儚い様を嘆き、歌を手向ける。夜、上皇の霊が現われ、歌を愛で舞楽を奏して西行を歓待するが、都での位争いを思い出すうち、逆鱗の姿となるや、白峰の相模坊と眷属の天狗どもが現われて逆臣の輩を蹴殺して上皇のお心を慰めることを誓い、上皇を伴い空のかなたへ飛び去る。』(大槻能楽堂ホームページから)

松山天狗の舞台となったのは、香川県坂出市である。市のホームページ  (参照・『跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史』山田雄司著 吉川弘文館 2007年刊)

歌川国芳の鎭西弓張月で為朝を救うために現れるカラス天狗(下の浮世絵)
「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)版元・鳳来堂 住吉屋政五郎 嘉永五年(1852)東京国立博物館蔵  歌川国芳の鎭西弓張月へ


「為朝譽十傑」歌川芳艶 (パブリックドメインWikipedia)
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