「風神雷神図」を描いた謎の人物 俵屋宗達
 俵屋宗達は、京都で「俵屋」という、当時「絵屋」と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵(下の写真)を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたと考えられている。当時から評判が高く、朝廷からも依頼があったという。国宝『風神雷神図屏風』は教科書にも掲載され、日本人に一番知られた絵かもしれない。
この絵(下の写真)は、画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感と運動感をもたらしているが、その特異な構図は扇絵の構図ではないかと言われている。風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらした雷神の姿は、北野天神縁起絵巻(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図様からの転用であるが、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される。しかし、宗達は元来赤で描かれる雷神の色を、風神との色味のバランスを取るため白に、青い体の風神を同じ理由で緑に変える等の工夫を凝らし、独創的に仕上げている。金箔、銀泥と墨、顔料の質感が生かされ、宗達の優れた色彩感覚を伺わせるほか、両神の姿を強烈に印象付ける。特に重要なのは、たらし込みで描かれた雲の表現である。絵の中であまり目立つ存在ではないが、二神の激しい躍動感を助長し、平坦な金地に豊かな奥行きを生む役割を果たす。宗達は墨に銀泥を混ぜて使用する事で、同一の画面に墨と金という異質な素材を用いる違和感をなくし、柔らかく軽やかな雲の質感を描き表している。(参照・ウィキペデア)
 俵屋宗達『風神雷神図屏風』 作画年不明 京都国立博物館蔵
俵屋宗達の風神雷神図(上)と尾形光琳の風神雷神図(下)
俵屋宗達の風神雷神図を模写した尾形光琳の宗達画  尾形光琳は、体躯や衣文線などの輪郭線を驚くべき忠実さで写しており、単に屏風を瞥見した程度ではなく、時間と手間を惜しまず正確に写し取った事が伺える。そして光琳はいくつかの改変を加えている。
1、風神・雷神の姿が画面ぎりぎりではなく、全体像が画面に入るように配置されている。宗達が屏風の外に広がる空間を意識したのに対し、光琳は枠を意識しそこに綺麗に収まるよう計算しており、片隻だけ見ると光琳の方が構図がまとまっている。

2、宗達の画では、両神の視線が下界に向けられているのに対し、光琳の画では両神がお互いを見るように視線が交差している。ただし人間の躍動感は宗達のほうがあるようだ。 また、両神の顔が全体に柔和な印象を受け、荒ぶる神から卑俗な擬人化がより進んでいる。
屏風全体の寸法が若干大きい(宗達画は各154.5×169.8cm、光琳画は各166.0×183.0cm)。二神の大きさは変わらないため、絵の中では光琳の宗達画は各154.5×169.8cm、風神雷神の方が相対的に小さく見える。 細部の描写や彩色を変更、特に輪郭線や雲の墨が濃くなり、二神の動きを抑える働きをしている。 光琳の模写も傑作の部類に属するが、上記の相違点により、「宗達の画のほうが迫力がある」という人も多い。
しかし光琳は、風神雷神図の構図を借りつつも図様を梅に置き換えた、尾形光琳の最高傑作である「紅白梅図屏風」だという事は留意すべきであるとも言える。(参照・ウィキペデア)
  『松島図屏風』俵屋宗達 フーリア美術館所蔵
廃仏毀釈の結果、絵画の海外流出

フリーア美術館は、アメリカ人チャールズ・ラング・フリーアが購入した日本美術品を中心に構成されている。「松島図屏風」は、堺の豪商であった谷正安(1589年〜1644年)が屏風作成を依頼し、堺の祥雲寺に寄贈された俵屋宗達の作品である。その後、少なくとも明治35年(1902)までは祥雲寺にあったことがわかっている。尾形光琳は、宗達が描いた松島図屏風を四回も模写している。現在ボストン美術館にあるものが有名で、これはアーネスト・フェノロサが買い求めたものである。これを含めた光琳の作品が海外に渡ることにより、光琳が世界的に高い評価を得ることになった。日本にあれば、間違いなく国宝であったろうと言われている。日蓮芸術家目次扉に戻る