七代目 松本幸四郎 「勧進帳の弁慶」は神品といわれた歌舞伎役者

松本幸四郎こと本名・藤間勘右衛門の墓(左側)
  『藝文家墓所誌 東京美術家墓所誌続編』によれば、ここには七代目松本幸四郎が眠るという。
 
明治2年生まれ、明治44年(1911年)に幸四郎を襲名。舞台の大きさは無類と言われた、特に「勧進帳の弁慶」は当たり役で、師匠「団十郎」譲りの絶品として生涯に1600回演じられた。なかでも1943年(昭和18年)、歌舞伎座で「幸四郎の弁慶」に、六代目「尾上菊五郎の義経」、十五代目「市村羽左衛門の富樫」で上演された『勧進帳』は記録映画に残されている。「誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ」(岡鬼太郎)と評されるほど、近代随一の弁慶役者であった。


参考
 『藝文家墓所誌 東京美術家墓所誌続編』結城素明 著 (株)学風書林 昭和28年(1953年)刊
弁慶写真
屋号 高麗屋(こうらいや

   明治3年(1870年)生まれ、昭和24年(1949年)1月27日没 享年80才。『前日に振付師の藤間良輔が『助六』の振り付けの段取りを訪ねられ、体調を崩して寝込んでいた幸四郎は「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、下駄をはいて踊り、その翌日死去するという壮絶な最期だった』(ウィキペディアより)。
他の当たり役は『大森彦七』、『矢の根』の曾我五郎、『暫』の鎌倉権五郎、『菅原伝授手習鑑(車引)』の梅王、『源平魁躑躅(扇屋熊谷)』の熊谷次郎直実、『博多小女郎波枕』の毛剃、舞踊では『関の扉』の大伴黒主、『茨木』の渡辺綱など。
写真左の墓は「藤間勘右衛門」(二代)
 五代日本舞踊の一つ、藤間流の家元である、墓は二代目・藤間勘右衛門の墓(1840〜1925年)、彼は明治期の劇場振り付け師で名人と言われた。上記の松本幸四郎(7代)は藤間勘右衛門の三代目である。今日では「家元」勘右衛門派と、「宗家」勘十郎派の二派に大別されるが、松本幸四郎は勘十郎派である。
右の墓は八代松本幸四郎(初代・白おう)無形文化財保持者である。

↑『勧進帳』の弁慶
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