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●昔の内川(桜並木の昔) 上の写真は昭和37年(1962)頃の航空写真、現在の桜並木入り口付近と善照寺である。左下の建物が善照寺と墓地、墓地横の坂道が「おいはぎ坂」である。写真下の櫛(くし)状は内川のコンクリート横木である。横幅は一間(1.8メートルほど)である、この頃の内川は小さなドブ川であった。昭和28年(1953)に町の有志が集まり寄付金を集め、1メートル50センチ(4年苗木)の桜を植えた。最初の桜並木は60メートルほどしかなく、その後、順次に桜の苗木が植えられ桜並木へと育って行った。 下の写真はレンガ造りの歩道となった現在の桜並木風景。レンガの下は埋められた暗渠(あんきょ)の内川である。 |
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↑●上の写真は、桜並木の終わりにある太田中央西郵便局である、右の道は緑道化された内川の跡、左に行くと区立龍子記念館である。下写真、緑道を行くと佐伯栄養学校の台地にぶつかる、そして台地に沿うように左に曲がり、旧池上道(平間街道)方向を目指す。 |
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●佐伯栄養学校(今は佐伯山公園になっている)の台地脇から、内川は明るい場所に出る。昔からの田んぼ道、五つ方向に行ける交差点である。左斜め見える道が内川の流れていた方向のようだ。道沿いには、大森みのり幼稚園、新井宿会館、大森赤十字病院があり、それらを横目に見ながら六郷用水跡、旧池上道(平間街道)、池上バス通りを越えると、後はJR東海道線の線路まで直線である。耕地整理の前は、内川の流れも昔は蛇行していたと考えられが、現在は大きく変化しているようだ、ここ新井宿あたりは大田区でも早くに耕地整理がはじまった地区である。耕地整理は大正初年から始まったということである。 大森赤十字病院横の道をJR線路へ ●上の写真はJR線の線路、下は人も屈んで渡る線路下道。右側に暗渠部分の扉がある。JR線路下から新川(内川)は始まる。下の写真は線路下の道、高さが低く2メートルも無いようだ。 ●右の写真は、線路下の暗渠出口部分である、扉があり逆流を防いでいるらしい。上側に人間のくぐる道が造られている。踏み切りが無いので便利に使われている。 |