第二京浜国道(現・国道一号線)の松原橋建設と新松原橋の建設

上部写真 中央に見えるのが、第二京浜国道の松原橋である(昭和12年頃の松原橋)。下の建設中の道路が環状七号線で、右側の崖の一段と低くなった所が、新松原橋の建設予定地である。左側は未完成である。下は完成した環状七号線である、驚くほど交通量が少ない。
 
関東大震災で甚大な被害を受けた都市の再建のため、道路幅は広くとり延焼を防ぐ効果を持たせた、道幅は30〜43メートルの4車線とした。また、何本もの放射道路計画と共に環六(山手通り)、環七、環八等の環状道路計画が生まれた。計画は昭和2年頃生まれたが、戦争のため進まず、環状七号線が完成したのは、昭和2年の計画から遅れること、昭和60年の頃であった。東京オリンピックが追い風になり、大部分は5年ほどで完成した。(写真 「写真アルバム 大田区の昭和」発行所 株式会社いき出版2019年)
昭和15年に通行が開始された松原橋立体交差は、日本で開催される予定であったオリンピックのマラソン大会で折り返し地点となる予定であった。
上の写真は、大森方向から見た建設風景。昭和12年頃の松原橋建設風景である。後方に見える大きな松の木は、天祖神社の松の木と思われるが、はっきりと断定できない。戦時中の天祖神社の三本松は巨大で高いため米軍の爆撃目標となると、軍部により伐採されていた。

三本松塚は、環七と第二京浜の立体交差近くにある。この付近で台地を削り高い切通しとなり、荏原へのバス通りは新馬込橋の陸橋を越える。今はない三本松が近くにあった。

天祖社殿裏が「三本松塚」である。案内の看板等はなにもない。神社も公園内にあり由緒などを考えると寂しい気がする。天祖神社


都心の大動脈環状7号線をまたぐ陸橋が「新馬込橋」で橋の袂(たもと)には、川瀬巴水の「馬込の月」のレリーフが彫られている。左は池上通りつながる嶺道、右は荏原町から中原街道に行ける、古くは都道56号大森田無線と言われた。右のビル裏側に天祖神社がある。写真は環状7号線、進行方向が杉並方向で反対は大森方向。



昭和14年12月に完成した新馬込橋、
撮影は昭和15年10月撮影、東京都建設局所蔵。下の三つ折りパンフレットは平成23年12月6日から平成27年3月13日まで予定された、新馬込橋架替工事である。発注者・大田区都市基盤整備局 建築工事課 施行者・大成・佐々木建設共同事業体

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