東海道沿い、古来より鈴ヶ森八幡宮と呼ばれた磐井神社
磐井神社について………江戸名所図会の磐井神社
 『延喜式』の神名帳にも記載された古社、かつては鈴ヶ森八幡宮と呼ばれた寺である。八幡宮鎮座は天正年間頃(1573-92)だと考えられる。これは『江戸砂子温故名跡誌』享保17年(1732)に明記されている、『天正年間中に山城国男山八幡宮から八幡大神を移遷して鈴ヶ森八幡宮と称した』からの記述で確実であろう。   徳川幕府になり武家信仰の篤い八幡信仰を祭祀したのである。五代将軍綱吉、八代将軍吉宗なども崇敬が篤かったという。
 また明治時代にも崇敬を集めた神社である、『明治元年戊辰年十月十二日、明治天皇御東行通輦の際、神祁祗官権判事平田延太郎延胤をして、當社へ御代拝せしめられ奉幣料千疋御奉納あり、……』(「入新井町史」昭和2年(1927)入新井町史編纂部 岩井和三郎刊)

鈴石伝説……
 この神社で有名なのは、鈴石伝説(鈴のように美しい音がする、鈴ヶ森の地名の元となる)と鳥石(うせき)である。鳥石とは、墨絵のような鳥の形がある石である。境内には石碑が4基あり、文人達が使用した古い筆を埋めた供養塔である。また鳥居の前の歩道に「磐井の井戸」がある。今は探してもみすぼらしくて、がっかりするが、江戸時代には井戸水は霊水として信じられていた。
  江戸時代には、この井戸から先は海岸線であったという。社殿は2005年に屋根の葺き替えをしており、2006年初頭には銅葺きの輝く屋根が見られる。

鈴石について……
 『神宝に鈴石あり、此の石は神功皇后 三韓御征伐の時、長門の国豊浦の海浜にて、得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狄御征伐神国豊栄の基を開き給ひ、御凱旋の日は御産室に置かせられ、御産平安皇子御降誕在位繁昌の神徳を以て、此の石を如意の宝珠と御称美あらせられ、又となき御重宝として、筑前の香椎の宮に納め置かせ給ひしを、聖武天皇の御字、御史太夫石川朝臣年足宇佐宮に奉幣の時、神告に依り此の石を授けられる、その後年足の嫡孫中納言兼右京大夫豊人卿武蔵守に任ぜられ、當国へ下著の時、神勅に因り當社に奉納せられしといふ。……』
「入新井町史」入新井町誌編纂部 岩井和三郎刊 昭和2年(1927)刊


磐井神社の鳥居と社殿(現在は新しくなっている)


文人の石碑(上の写真)が4基ある。鳥石碑…元文6年(1741)松下鳥石が奉納。狸筆塚の石碑…天命6年(1786)・竹岡先生書学碑…寛政8年(1796)・たい筆塚の石碑…文化6年(1809)
いずれも、文人達が使用済みの筆を埋め、供養のために立てた石碑。同じような石碑が北野神社にある。


境内には、二本のイチョウの木があり、樹齢は300年を越えると思われる。高さはほぼ16メートル。同じようにイチョウが綺麗な神社に馬込の湯殿神社がある。(上写真)

昭和初期の磐井神社、「入新井町史」入新井町誌編纂部 岩井和三郎刊 昭和2年(1927)の口絵写真。

昭和初期の磐井神社写真
昔の磐井神社

笠島弁天社柱の飾りである獅子の木彫りである。大正期の建築と言われている。(左写真)

合祀されている海豊稲荷神社
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