アーネスト・フェノロサの一番の功績といえば、日本人に自国の美術品(芸術)に価値がある優れたものだと誇りを持たせたことにある。西洋一辺倒の時代に日本のものに目を向かせたことにある。明治15年、上野の教育博物館で行われた講演で発表された『美術真説』は日本画の再興の道筋を示すものであった。

この動きにフェノロサと共に乗りだしたのが、狩野芳崖であり、大きなうねりを作り以後の日本美術界を牽引していったのが岡倉天心である。フェノロサが道を開いたことに間違いはない。時代が日本への回帰に向かう時だったといえる。


アーネスト・フェノロサは廃仏毀釈やそれに続く経済的な締め付けにより、うち捨てられていく美術品を買い上げ保存したのであり、不当な方法で持ち去ったのではない、むしろ信仰をすて寺社を破壊した人々に非難は向かうべきである。興福寺の五重塔のように危うく売られ、燃されて金のみを回収しようとしたことが、実際に多くの塔で行われたのである。仏像や絵巻などは近隣の人々に持ち去られ、詳細な記録もないのが歴史的事実である。(個人的な見解)

アーネスト・フェノロサは集めた美術品をボストン美術館に寄贈することを条件に売却していった。明治44年(1911)のことであり、このコレクションとビゲロー、モースの三人のコレクションを中核としてボストン美術館の東洋美術部が形成されたのである。

明治23年(1890)にフェノロサは、ボストン美術館東洋美術部長に就任、自身が集めたコレクションの整理にあたった。彼しかできなかったのである。

明治37年(1904)にフェノロサの後を継ぎ、ボストン美術館東洋美術部長になったのが岡倉天心である。彼は、大正3年(1913)に亡くなるまでボストンと日本や中国、ヨーロッパの間で過ごす。二人によって体系的な日本美術が残ったのである。

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