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尾形光琳 『松島図屏風』 狩野元信 『白衣観音像』 狩野之信 『四季花鳥図屏風』 雪舟 『花鳥図屏風』 住吉慶恩 『平治物語絵巻』 巨勢金剛 『不動図』 岸駒 『神鹿図』 狩野隆信 『聖徳太子絵伝』 |
大徳寺蔵 『羅漢図』 伝 狩野永徳 『龍虎図屏風』 文清 『山水図』 作者不詳 『吉備大臣入唐絵巻』 作者不詳 『大威徳明王像図』 田野村長入 『山水図屏風』 『法華道根本曼荼羅図』 |
「吉備大臣入唐絵詞」とは |
保坂清氏によれば……
お雇い外国人が首になっていく現実に危機感を抱いたフェノロサが、帰国しても価値の高い日本美術品に自分の将来をかけて集めていったと推察されている。 また、保坂氏はフェノロサと言う外国人によって日本美術が賞賛され、日本人が自分たちの美術に誇りを持つことが出来れば、帝国の利益になると考えたのではないかと言う。そのため政府は便宜を与え、多少の美術品が国外に持ち出されても目をつぶったのだという。 (「日本美術の恩人」の陰の部分 フェノロサ』保坂清著 河出書房新社 1989年刊) ●明治23年(1890)にフェノロサはボストン美術館の東洋美術部長に就任した、5年間勤務した。自分が売却した日本美術の整理のためである。当時、彼しかこの仕事をできる人間はいなかったからである。 明治31年(1898)フェノロサ三度目の来日、岡倉天心に就職を依頼するが不調。また、岡倉天心も私生活のスキャンダルで東京美術学校を辞任する。 小林文七とフェノロサは、明治31年(1898)、上野の伊香保楼で「浮世絵展覧会」を開催した。フェノロサの解説によって日英両文の目録を刊行した。明治34年には「北斎展」を開いた。フェノロサやビゲローのコレクションの多くが小林文七の所から出ていると思われる。 フェノロサはチャールズ・フーリアにコレクションを売却していった。また、浮世絵のコレクションはシカゴ美術館の大コレクションの基礎となっている。 明治34年(1901)フェノロサは、フーリアに残っていたコレクションを売却した。同年離日した。翌年にもフーリアに5000ドルで売る。 明治40年(1908)フェノロサはヨーロッパで天真に出会う。9月21日に心臓発作で死亡、ロンドンでのことであった。 明治42年(1909)、彼の遺骨は三井寺法明院に埋葬された。 ●フェノロサの死後、メアリー夫人はノート類や文章を競売にかけた、多くはハーバード大学のホートン・ライブラリーに購入された。現在、募集ノートの「掛け物」編の一冊が秋山和宅に、日本画家の印章を集めたものがハーバード大学のフォッグ美術館に、スライドがフーリア美術館にある。 ●日本美術流失に関わった人物にフランク・ロイド・ライトがいる。彼はアメリカの富豪から購入資金を預かり、日本で美術品を購入した。ライトは購入手数料を受けとり自分の美術品を買った。特に北斎の狂歌肉筆画が好きであったようで、最後まで売却しなかった。 |