アーネスト・フランシスコ・フェノロサが購入した珠玉の日本美術


アーネスト・フランシスコ・フェノロサ


彼が与えた大きな影響は明治15年5月、東京上野にあった教育博物館において竜池会を開き、講演したことである。このときの講演はすぐに翻訳され『美術真説』と題されて出版された。明治維新以来、洋画に傾いていた絵画の世界に日本画を見直す機運を作り出したのである


〈フェノロサが集めたコレクション〉
 明治19年(1886)、チャールズ・G・ウエルドに2万点のコレクションを25〜28万ドルで売却、のちボストン美術館に寄贈された。フェノロサは、これらのコレクションを明治11〜23年までに集めたという。
明治18年から23年までにフェノロサが収集した日本の美術品は20,000点という説もある


フェノロサの集めたもの、いずれも日本にあれば、国宝、重要文化財級である(有名美術品の一部)。「吉備大臣入唐絵詞」の流失は後に大きな損失と捉えられ、昭和八年(1933)に「重要美術品等ノ保存二関する法律」が出来た。流失した明治時代は自国の美術品に対する評価が低く、酒井家が所有していた「吉備大臣入唐絵詞も数度の売り立てにも買い主は現れず、来日していたボストン美術館東洋部長の富田幸次郎氏が購入した。このことで富田氏は売国奴といわれのない中傷をうけた。(参照・『日本美術の流失』瀬木慎一著 駸々堂出版 1985年刊)


吉備大納言入唐絵巻 ボストン美術館所蔵
ー主な流失品ー
 
 尾形光琳 『松島図屏風』
 狩野元信 『白衣観音像』
 狩野之信 『四季花鳥図屏風』
 雪舟 『花鳥図屏風』
 住吉慶恩 『平治物語絵巻』
 巨勢金剛 『不動図』
 岸駒 『神鹿図』
 狩野隆信 『聖徳太子絵伝』
  大徳寺蔵 『羅漢図』
 伝 狩野永徳 『龍虎図屏風』
 文清 『山水図』
 作者不詳 『吉備大臣入唐絵巻』
 作者不詳 『大威徳明王像図』
 田野村長入 『山水図屏風』
『法華道根本曼荼羅図』
 

「吉備大臣入唐絵詞」とは

 
絵巻の内容は、大江匡房(おおえまさふさ・1041〜1111)の『江談妙(こうだんしょう)』(巻第三)に収められている。
内容は「吉備入唐間事」物語と一致しており、遣唐使の吉備真備が在唐中に楼門に幽閉され、鬼となった阿倍仲麻呂に導かれて、皇帝による『文選』や囲碁による無理難題を解いて、遂に帰国を達成するというものである。但し、現存の絵巻は冒頭の真備が入唐して幽閉される詞書および、後半部分である「野馬台詩」の解読に成功して帰国を果たす場面は欠いている。
絵は後白河院時代の宮廷画家 常盤源二光長、絵詞は吉田兼好と伝わるが根拠は希薄である。

平安時代には蓮華王院が所蔵していたと考えられるが、1441年頃、若狭国松永庄新八幡宮に秘蔵された。その後、所有者が流転するが江戸時代末には小浜藩酒井家の所有となる。大正十二年までは酒井家に伝えられていたが、昭和七年(1932)来日したボストン美術館東洋部長の富田幸次郎が購入する。不正の取引では無く、正当な取引であったが報道では国宝級美術品の海外流失と話題になり、これを機に流出の翌年4月1日「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が公布・施行され、美術品の国外流出を防ぐ処置が取られるようになった。
ボストン美術館所蔵
吉備大納言入唐絵巻

 平安時代 十二世紀
 紙本着色 第一巻 32.0×673.5センチ
      第二巻 32.0×458.7センチ
      第三巻 32.0×721.8センチ
      第四巻 32.0×598.1センチ
 長尺のため、保存を考えて四巻に改装された。
(参照・『ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展』東京国立博物館・京都国立博物館編 日本テレビ放送網(株)発行

 

 保坂清氏によれば……
  お雇い外国人が首になっていく現実に危機感を抱いたフェノロサが、帰国しても価値の高い日本美術品に自分の将来をかけて集めていったと推察されている。
また、保坂氏はフェノロサと言う外国人によって日本美術が賞賛され、日本人が自分たちの美術に誇りを持つことが出来れば、帝国の利益になると考えたのではないかと言う。そのため政府は便宜を与え、多少の美術品が国外に持ち出されても目をつぶったのだという。
(「日本美術の恩人」の陰の部分 フェノロサ』保坂清著 河出書房新社 1989年刊)

明治23年(1890)にフェノロサはボストン美術館の東洋美術部長に就任した、5年間勤務した。自分が売却した日本美術の整理のためである。当時、彼しかこの仕事をできる人間はいなかったからである。
明治31年(1898)フェノロサ三度目の来日、岡倉天心に就職を依頼するが不調。また、岡倉天心も私生活のスキャンダルで東京美術学校を辞任する。

 小林文七とフェノロサは、明治31年(1898)、上野の伊香保楼で「浮世絵展覧会」を開催した。フェノロサの解説によって日英両文の目録を刊行した。明治34年には「北斎展」を開いた。フェノロサやビゲローのコレクションの多くが小林文七の所から出ていると思われる。
フェノロサはチャールズ・フーリアにコレクションを売却していった。また、浮世絵のコレクションはシカゴ美術館の大コレクションの基礎となっている。

 明治34年(1901)フェノロサは、フーリアに残っていたコレクションを売却した。同年離日した。翌年にもフーリアに5000ドルで売る。
明治40年(1908)フェノロサはヨーロッパで天真に出会う。9月21日に心臓発作で死亡、ロンドンでのことであった。 明治42年(1909)、彼の遺骨は三井寺法明院に埋葬された。

フェノロサの死後、メアリー夫人はノート類や文章を競売にかけた、多くはハーバード大学のホートン・ライブラリーに購入された。現在、募集ノートの「掛け物」編の一冊が秋山和宅に、日本画家の印章を集めたものがハーバード大学のフォッグ美術館に、スライドがフーリア美術館にある。

日本美術流失に関わった人物にフランク・ロイド・ライトがいる。彼はアメリカの富豪から購入資金を預かり、日本で美術品を購入した。ライトは購入手数料を受けとり自分の美術品を買った。特に北斎の狂歌肉筆画が好きであったようで、最後まで売却しなかった。

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