江戸時代の日本の宗教風景は神仏習合である。


日本の神仏習合と何か………
  大陸から仏教が伝わり、奈良時代になると日本独自の宗教観が生まれた、それが「神仏習合」である。古来からある神と仏教が巧く折り合いをつける仕組みが生み出された。どのようにして神仏習合が進んだのか、諸説を紹介していこうと思います。


奈良時代から……
  奈良時代、律令国家建設を進めていた8世紀ころ、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)の征伐に多くの人命を失いました。この戦いに参加していた宇佐の兵士は、八幡神を御輿に乗せ戦っていました、戦いには勝ったが、殺生を悔いた八幡神が仏教に救いを求めたと伝えられています。

浮世絵「大日本名将鑑」月岡芳年  ボストン美術館所蔵

『宇佐宮御託宣集』より。「放生会(ほうじょうえ)」はその歴史を祭りにしたものであると伝えられています。ここ宇佐から神と仏の習合した思想が生まれたと言います。


東大寺の大仏建立……
  天平勝宝4年(752)に東大寺大仏殿は完成しました。その3年前に宇佐宮の女禰宜・大神杜女(おおがのもりめ)が八幡神の神輿のお供をして紫の輿に乗り登場しました。何故、このような待遇を受けたのでしょうか、それは大仏建立という大事業に悩む聖武天皇に、宇佐の八幡神から『われ天神地祇(てんしんちぎ)を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん』と言う協力の託宣を出したのです。託宣のとうり、陸奥の国から金が献上され、大仏は無事完成することが出来たのです。この功績により、八幡神は東大寺を護る神として手向山八幡宮(たむけやまはちまん)が祀られました。
(「東大寺縁起」より)

 この頃、仏教によって八幡神自身が救われると同時に、八幡神が仏教を護るという思想が出来たのです。八幡神は、国家神として第一歩を踏み出したのです。 神輿は、大神杜女が紫の輿にのり奈良の都に入京したのが始まりとされています。写真は源頼朝が復活させた放生会である。

神宮寺の成立……
 
神と仏の相互関係から、仏が権に(ごんげん)現れた事から権現が生まれた。これにより、神社を仏や菩薩が護るため神社に付属して置かれたのが「神宮寺」である。神宮寺は神宮院、宮寺、神願寺、神護寺、本地堂ともいわれ、多くは神社内にあったが、別の場所にある事もある。

 その宗派は天台宗、真言宗に属するものが多い。平安時代を経て鎌倉時代には神仏習合が完成を見たと言われる。神宮寺を預かる僧侶を社僧といい、その最高位が別当である。別当を監督するのが検校(けんぎょう)である、江戸時代には権勢をふるい、時代劇にも出てくる。

本地垂迹説……
飯縄権現の多くは烏天狗姿で表される。白狐に乗り、体には白蛇が巻き付いている。戦国時代には、足利義満、上杉謙信、武田信玄などに戦勝の神として信仰された。上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名である。写真はギメ美術館の飯縄権現(飯縄明神)である。
仏や菩薩が人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現れるという説。古くから始まったが、中世には広く知られるようになった。それは仏教の側から日本の神を取り込んでいく動きであった。例えば大日如来が天照大神の本地であるとする解釈の中に見られる。その後、日本人に広く広まるが、江戸時代には国学者により復古神道が広まり、本地垂迹説は俗信道として排斥された、その流れで明治政府は神道を国教と成し廃仏毀釈の運動につながるのである。

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