江戸幕府の治水事業 六郷用水ー1 大田区の始まり

六郷用水の始まりは丸子川から……

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徳川家康は江戸幕府を開くとともに、江戸南郊の外「荏原郡」を開発して水田を増やし、江戸の人口増加に備えて米を中心に粟・大豆などを増産しようと考えた。そのため開墾する土地は、ほとんどを直轄領として「六郷用水」「二箇領用水」を開掘し始めた。この事業は、家康が完全に天下を取る前から始まっており、政権基盤を安定させるために大変重要視していたことが分かる。担当したのは小泉次大夫である。慶長2年(1597)に始めてから12〜15年の時間を要した大事業であった。


 六郷用水は、多摩川の水を狛江市和泉で取水し、和泉村から亀甲山(かめのこやま)大田区までは一本で引かれており「次太夫堀」と呼ばれた、仙川、鵜ノ木を通り、矢口付近で南北(南北引分)に分ける。蒲田、六郷、麹谷の南堀と池上、堤方、新井宿(大森)、不入斗の北堀である。最後は東京湾に注がれた。堀の全長は24〜30キロメートル、1500ヘクタールの広大なものであった。最初の頃、世田谷領は六郷用水を使用できず通過するだけでしたが、100年後の享保年間(1725〜29)の改修工事後は使えるようになりました。

二箇領用水は川崎市多摩区中野島上河原と宿河原の二カ所から取水して中原区、幸区に流そうというものです。全長は32キロメートルで最後は東京湾に流れました。堀の幅は主流で5メートル、支流は2メートルの規模でした。

 家康がこの工事をいかに重要視していたかの証拠として、慶長6年(1601)に小泉を川崎代官に任命しています。また権限も与え、人足の徴集も自由にやらせています。その上に報酬として、完成後は開発した土地の十分の一を与えています。100年後には、田中休愚(たなかきゅうぐ)が大改修をやり、最後まで江戸幕府の水を供給して食料確保に貢献したのです。


六郷用水のデーター
 六郷用水の幅は2.4メートル、土上道・脇土手1.8メートル(道塚村から鵜ノ木村までの第一工区)他の工区もほぼ同じような仕様である。
2011.05.11更新

多摩川沿いに流れていた六郷用水が、大田区に入り多摩川台地山裾に沿い流れ始めたところである。現在、六郷用水であるこの川は「丸子川」(大田区)と呼ばれている。下の写真は、田園調布八幡神社に架かる橋の上から上流方向を見たところ。

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   復元された六郷用水…田園調布33・34・35番地付近
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写真 湧水

↑●上の写真は再現された六郷用水に流れ込む湧水である。左の看板には「東京の名湧水57選」と書かれている。しかし大田区制作のパンフレット『見てみよう 大田区の水辺 Part3』(平成3年)によれば水質は悪く、昔の清らかな水ではないと書かれている

写真右 「ジャバラ」と呼ばれた踏車(ふみくるま)の復元模型。早春や干ばつの時、六郷用水から田に水をくみ上げることに使用された。
水汲みジャバラ写真
場所は東急多摩川線(元東急目蒲線)の「鵜の木駅」から沼部に向かった所。ほぼ、400メートル近く再現され、武蔵野台地の裾にそって掘られた様子が分かる。 下の写真は、東光院から密蔵院に向かう道、昔の六郷用水跡である。右側に小さな掘り割りがあり六郷用水を偲ばせる。女堀に向かう道→ 住所 田園調布本町35(東光院)最寄り駅 多摩川線 沼部駅 。
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