明治時代になると、渡船は水上交通へと変貌した
東京両国通運会社 川蒸気往復繁栄真景図 重清 東京都公文書館蔵 (36.6×24.7センチ)三枚構成 右の建物は両国橋付近に立つ東京両国通運会社、会社の旗も翻っている。

 明治期の渡し場風景
  明治から大正にかけて東京の川には、約68の「渡し場」があった。明治政府が明治4年より橋梁・渡船の整備を奨励し、私設の橋や渡船に免税の措置を取ったため盛んになった。道路はほとんど変化せず江戸時代のままだった。また、武士の無賃も廃止された。渡し賃を取ることも認められ、1人あたり、一厘から五厘〜七厘ぐらいであった。江戸時代よりも明治の方が渡しは盛んになったのである。特に下町の人口が増えるに従い、隅田川や大川に渡しが増えたのである。(中央区にも渡しの資料があります)

 一銭蒸気の出現から川蒸気船へ 推移
  一銭蒸気は明治・大正期の都市風景には欠かせないものである。ではいつから「一銭蒸気」が使われたのかはっきりした定説はない。 昭和54年の『国史大辞典』によれば、「明治18年浅草〜両国館に始めて川蒸気が就航し、その後八丁堀、中之島、千住大橋へと区間を延長した」とある。
 
  2番目の説は、墨田川汽船会社の古川孝七氏である。『隅田川に火船を上下せしものの嚆矢たり』と『京浜実業家名鑑』(京浜実業新報社 明治40年)に紹介されている。

 3番目は、明治18年7月2日、隅田川が大洪水となり吾妻橋が流失した、足を確保するため臨時に使用されたのが石川島造船所の『第四痛快丸』 だと言う。これが起源だと『本元昌造・平野富二詳伝』(昭和8年)にある。

 最後の4番目説は明治の実業家・緒明菊五郎が永代と両国の間に使用したのが起源だという。一銭蒸気は好評で続々と新航路が開かれた。一銭蒸気は焼き玉エンジンだった、特有のぽんぽんと音がして『ぽんぽん船』と親しまれた。隅田川を航行する千住吾妻汽船の一銭蒸気は「上流に向かう船は緑色に塗られ、青蒸気と呼ばれた」「下流に向かう船は白く塗られ、白蒸気と呼ばれた」のである。

 多摩川では渡船に蒸気船を使用しなかった。浅い多摩川での運行は無理だったのか、渡しの往復では採算が合わなかったのかもしれない。下町の渡しは蒸気船になった。今までの手こぎの渡し船とちがい蒸気船は、川の増水などでも運航できたため徐々に増えていった。この延長線上の錦絵にあるような『通運丸』が出現したのである。


 外輪船『通運丸』にみる水上交通の発達
 
  明治10年(1877)5月、内国通運会社は深川扇橋から栃木県の生井村を結ぶ航路を開いた。この時使われたのが『通運丸』である。翌年には茨城の古河への航路も出来た。発着場所は日本橋蛎殻町である。
  明治10年頃には水運会社は19社で、運用している蒸気船は67艘ほどである。内国通運会社だけでも、第一通運丸から第九通運丸の9隻が運行していた。明治19年(1886)まで蒸気船は増加して143隻を数えるほどになった。

 明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。
 大正8年(1919)には深川から浦安に定期船が運航された。土地の人は通船といって親しんだ。通運丸は石川島造船所で造られた外輪式蒸汽船で、明治10年(1877)から42隻造られた。きっすいが浅く内陸河川に適していた。利根川の通運丸は、大正8年(1918)に当時の運行会社が撤退した後、別地で稼働していたが昭和初期頃に廃船となった。

それらの蒸気船や渡しも橋梁ができると徐々に姿を消していった。乗り合いバスの出現は、浦安などの通勤客を奪っていった。多摩川で最後に廃止された渡しは、『管の渡し』で昭和48年(1973)のことである。 東京の渡しの最後は『佃の渡し』で、昭和39年(1964)のことであった。この佃島の渡船は、『明治村の入鹿池』に運ばれ観光船となったという。(参考・『東京から江戸へ』石母田俊著 桃源社刊 昭和43年刊)

 しかし現在の明治村に船はない、いつなくなったか分からない。一銭蒸気に始まった水上交通は、形を変えて観光用の水上バスとして現代に蘇った。

石川島播磨の資料館  ( 現・株式会社IHI) 
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