山王から池上道を歩く、天祖神社の『八景碑』と暗闇坂と 
モースが汽車の窓から発見した大森貝塚

句碑について……
 句碑は、八景坂上にある松の側に建てられていた(文化3年頃のことらしい)。現在、この場所にはビル(名称ララビル)が建っている。その後いつ移築されたかわからない。木が切られたのは、明治9年(1877)頃、鉄道の複線化工事で山側斜面が削られた時かもしれない。


アメリカ人、エドワード・シルベスター・モースが貝塚を発見時のスケッチ
(詳細)
 句碑には、『鎌倉の よより明るし のちの月 景山』とある。裏には八景を示す、笠島夜雨、鮫洲晴風、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘の名前が書かれている。大森八景には別名を上げることもある。


句碑は高さ1.5メートルほど、JR大森駅西口から横断歩道をわたり、階段を登ると見ることが出来ます。下の写真は駅から天祖神社を見たところ

古代から中世にかけて、八景坂の下は海辺であり、『荒藺ケ崎』と称された名勝地でした。平安朝の頃から知られていたようで、詩(うた)にも詠まれています。江戸享保年代(250年前)には、「八景坂」といわれ雪景色の名所として知られていました。

 このあたりを江戸時代は木原山ともいっていた。これは江戸開府とともに「旗本木原七郎兵衛吉次」の知行地となり、陣屋があったことによる。のちには、駅馬が置かれたために新井宿(荒藺宿)とも呼ばれました。

八景坂は別名『薬研坂(やげん坂)』『野鶏坂』とも言う。この名前は古老には良く知られています。また、江戸時代には、池上道ではなく相州街道、または平間街道、古東海道とも呼ばれていました。
 
句碑写真

天祖神社の創建は分からない、古くは神明社といわれた。八幡太郎義家が奥州征伐のとき戦勝を祈願したといわれている。信号機と該当の間に左の石碑が見える。

天祖神社の庚申塔は崖に彫られた洞窟に祭られている。「降三世明王尊」が納められている。造立は寛政12年(1800)である。住所 山王2ー8ー1 JR大森駅前


暗闇坂……下の写真は『入新井町史』口絵(1927年刊)、
  写真のキャプションは「元の暗闇坂上がり口」である。暗闇坂を線路側から見たところである。(昭和2年頃の写真)北に向かい坂を登る、両側は切り立った石垣である。昔はこの道から馬込村に向かった。耕地整理が終わる昭和の半ば頃までは、往復に半日かけて馬込より大森へ歩いたという。



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