吉原に出入りし大名や豪商との遊興が罪か、流罪になった英一蝶
『人物雑画巻』英一蝶 作画年不明 東京国立博物館蔵
 

英一蝶(はなぶさいっちょう)承応元年(1652)〜享保9年(1724)没
    英一蝶の父(多賀伯庵)は伊勢亀山藩五万石の藩医(侍医)であり、一蝶は京都生まれである.(これは『延宝元禄(三宅島)流人帳』の記録である)また山東京伝の『近世奇跡考』によれば大阪生まれともいうが誤りであろう。その後、8才か15才の頃、父と共に江戸へ移住する。伊勢亀山藩主石川憲之の藩命で、狩野宗家中橋家安信門下に17才で入門する。当時の狩野家(狩野四家)に入門するためには、藩からの推挙がいったと狩野家の資料にもあり、藩命による入門は正しいと思われる。藩から画才を認められたのであろう。入門後は狩野信香、安雄と名乗り剃髪して画名は多賀朝湖と号した。

  延宝末年から天保初年(1681)頃、一蝶は俳句を良くして 俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)と言い、俳人として宝井其角、松尾芭蕉などと親交を持ち、俳人としても認められた。俳句の集まりから旗本、諸大名、町人まで広く親交を結んだようである。『俳人としての詩感の洗練がかなりの熱意をもって長期にわたり続けられたことは、彼の風俗表現に、守景画にはない都会人風のあかぬけた情緒を宿らせることになるのである。』。書は佐々木玄竜・元山に学び、金工の「横谷宗みん」などと付き合う。(『守景/一蝶』日本美術絵画全集 第16巻)
  しかし、僅か数年で狩野家を破門されたと言う。理由は明らかでない、おそらく秀でた才能が周りの妬みを生み、本人が嫌気がさしたのではないか。又は自分で飛び出した、硬直した狩野派の粉本主義に嫌気がさしたのであろう。
  俳句が広めた付き合いは、町民のエネルギーを受け取り、風俗画に傾注した傾向を見せたのではないか、狩野派は浮世絵や風俗画を描くことは禁止であり、その事から破門になったのが一般的な結論であろう。


「朝暾曳馬(ちょうとんえいば)図」では朝陽を受けて川面に映る童子の影を描いたが、それは従来の日本画にはないものである。』(NHK2009年10月4日日曜美術館 流人絵師・英一蝶 元禄快男児伝説より)(注)「朝暾曳馬」静嘉堂文庫所蔵

 
 
また、 彼は吉原遊郭にも通う、花街における通名を和応(和央)と言い幇間(ほうかん)のような振る舞いをしたと言われる、時は元禄綱吉の治世である、世の中も平和が続き町民が力を付け、武士に対等な力を付けてきた頃である。そのような雰囲気の中で綱吉に反発したのか、言動が幕閣の怒りをかい、元禄6年(1693)英一蝶は入牢する、2ヶ月後に釈放される。
  2度目の入牢は元禄11年(1698)である、 理由は「馬の物言う」の流言に関わったとして伝わるが定かではない。三宅島へ流罪となる。47才の時であり当時では老年と言ってよく、二度と江戸には帰れないと覚悟したことであろう。

『 一蝶等が霊岸島から島送りになる日には大勢の見送り人があった。親友の其角は小舟に乗って見送りながら名残を惜しんだ。その時一蝶が言うには、「私が島に行ったならば魚をさいて干物にすることを商売にする。私の割いた魚には必ずえらに松葉を入れて置こう。 されば松葉の入っている干物が江戸に来たなら私がまだ生きていると思ってください」と言ってわかれた』(注.1)その後、三年過ぎてから初めて松葉の入った干物が見つかり、喜んだ其角は「島むろで茶を申すこそ時雨かな」と読んだと言われる。その其角も恩赦で一蝶が帰る二年前に死んだ。』(『本町画人伝 第一巻』村松梢風著 雪月花書房 昭和23年刊)


 三宅島では江戸からの仕送り(画材)で絵を描いた、反骨の彼でも江戸が恋しかったらしく机を江戸の方向に向けて描いた。このため「北窓翁」と呼ばれた。この時期の風俗画は、推定も含め「四季日待図巻」重要文化財・出光美術館所蔵、「吉原風俗図巻」サントリー美術館蔵、「布晒舞図」遠山記念館蔵、「松風村雨図」(ファインバーグ・コレクション)の4点が確認されている、島で描いた絵を一般的に「島一蝶」と呼ぶ。勿論、金のために描いた絵も多い。島で描いた絵は江戸でも売られ人気を博したと言う。三宅島の様子は一蝶自身の日記『朝静水記』に書かれている。

宝永6年(1709)、一蝶58才の時、将軍綱吉死去による恩赦で江戸に帰った、すぐに奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門などの豪商と付き合う幇間的生活に戻った。制作意欲も高く、数多くの屏風などが残されている。江東区白河の禅宗寺の「宜雲寺(ぎうんじ)」には、襖絵22面、屏風二双、軸物などが伝わっており、一般に「一蝶寺」として知られていたが関東大震災で焼失した。
  英一蝶は享保9年(1724年)正月13日73才で死亡した。江戸芝日本榎の承教寺塔頭顕乗院に葬られたが、現在は池上本門寺の承教寺墓域に分骨改葬された。為に墓は二カ所にあるが、池上本門寺には一族の墓があり一緒に葬られている。

辞世の句 池上本門寺 承教寺の英一蝶墓石より
1. まぎらかす浮世 のわざの色どりもありとや月の薄墨の空 (「本町画人伝」)
 
2.『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)
  (麻布二本榎承教寺地中顕乗院、英一蝶の墓)  法名英受院一蝶日意  享保九甲辰年 正月十三日
    此の石碑の左の脇に辞世の歌あり
    辞世 まぎらはす浮世の業の色とりもありとや月の薄墨の空 英一蝶書
 
3. 英一蝶画像の賛、「まぎらはす浮世の業の色どりもありとや月のうすゞみの雲」
 

車坂の中頃にある英一蝶の墓域、墓石の側面には
辞世の句がきざまれている。


墓地写真墓写真
墓側面写真
英一蝶 一族の墓
 
この墓域には、英一舟(二世)、英一川(三世)、英一珪珪(四世)、英一笑(五世)、英一蜻(六世)達の墓がある。

高輪の墓

承教寺にある英一蝶の墓
 港区高輪の承教寺には明治6年(1873)一蝶の孫一蜻氏により再建された墓がある、高さ50センチほどでの小さなもの、江戸期の墓は安政二年(1855年)の大地震で破壊された。(住所 港区高輪2ー8ー2)明治45年(1912)に本門寺承教寺墓地に移転。

参考資料〉
 『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」』安村敏信著 (株)小学館 2008年刊
 『知られざる東京の史跡を探る』武蔵義弘著 島影社 2004年刊
 『本町画人伝 第一巻』村松梢風著 雪月花書房 昭和23年刊
 『日本絵画の見方』榊原 悟著 角川書店平成16年刊
  日本美術絵画全集二十五巻 第16巻
 『 守影/一蝶』小林 忠・榊原 悟著 座右宝刊会 後藤茂樹編 集英社刊 昭和53年発売