狛犬の歴史 オリエントの獅子から日本の狛犬への変遷をたどる |
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■狛犬のルーツ…中近東のライオンから獅子へ変化…一般的な狛犬略史 |
獅子像について……
古来よりあらゆる文明において「ライオン」は力のシンボル
石造りのライオン像は、エジプトやチグリス・ユーフラテス両河畔に栄えた古代文明の中に見られた。ライオンは古代文明の発祥と共に力を示す動物と見られ「百獣の王」と崇められた。強いライオン(獅子)を狩ることで王の権威を示し、その姿から王の権威を守る護符として王の側に侍るようになった。それ以後、神殿や玉座に獅子の文様や石像が数多く見られるのはそのためである。
■エジプトとオリエント…世界へ伝播した獅子像
エジプトにおいても、ツタンカーメン王の玉座にも獅子があしらわれていた。オリエントでも古代文明の遺跡から多くの「獅子狩り」のレリーフが発見されています。また、獅子を土台とした霊獣を造り城壁を守りました。城門にはレリーフを、門の前には石像が置かれました。エジプト獅子像の顔は、人間だが体は獅子である。有名な「スフィンクス像」などは空想上の霊獣である。また、中近東の古代文明でも同様な石像が置かれている。オリエントからインドへこの霊獣思想は伝播した。
■インドから中国へ霊獣思想は伝播した……
今では見られなくなってしまったが、古代インドでは森にライオンが数多く生息していた。ヒンズー教でも獅子に跨る神像がつくられている。
釈迦自身が残したわけではないが、仏教でも釈迦没後600年後頃から仏像が造られ始め、ガンダーラ地方の仏像では、台座の左右に獅子像(ライオン)が彫られ、それが後の「蓮華座」となり「獅子座」となっていった。インドでは釈迦が説法する場所が「獅子座」と言われ重要視されている。時代を経ると、仏像の左右に獅子像が配置されるようになったようである。
■シルクロードを経て中国に入ってきたライオン像(霊獣)は、中国古来の霊獣観と融合して「唐獅子」に変化した。それらの像は昔からあった石獣や石人と共に並べられるようになった。中国では左右一対の形に定着した。
唐時代には、さらに中国風に変化して狛犬の祖になっていく。その代表的な例は高宗乾陵の石造獅子像である。やがて日本にも遣隋使や遣唐使によって仏教と共に伝来した。今でも寺院では内陣に木彫りの獅子像が置かれている。
中国でも時代が下がるにつれ、獅子像の首に飾帯が付けられるようになった、帯状のネックレスの様なものである。これは中国の獅子像の特長で、日本の狛犬にはあまり見られない。この飾帯が見られる狛犬は少なく「東大寺南大門の石造り狛犬」、「宗像大社(福岡県宗像郡玄海町田島)」の狛犬が知られている。参考 新潟・弥彦神社狛犬
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『首飾り』を巻く狛犬
御嶽神社・狛犬
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■日本独自の「狛犬」とは……中国(唐時代)から 日本へ伝播した狛犬………
日本への「唐獅子」伝播は、弘法大師の帰国で中国から密教(東密=真言宗系)と共に持ち込まれたらしい、この正式な仏教伝来以前、渡来者によりすでにもたらされ、「獅子」として知られていたらしいが詳細は不明である。密教伝来以後、仏教において守護者として一対の獅子となり、共に口を開き、他者を威嚇するように座った姿となった。それらは「仁王の阿・吽像」と同じように寺院や墓所の入り口に置かれた。また、宮中では御簾(みす)の重しとして置かれたらしい。仏教において、その姿は「文殊菩薩像」に菩薩が乗る青い獅子の姿として知られている。寺院に置かれた獅子は全身を金箔に塗られた木像が多い。今のような石造り狛犬ではない。
■ 驚いたことに2006年の正月、NHKを見ていたら再放送のドキュメンタリー番組『永平寺』(曹洞宗大本山)で、祭壇の前に、おそらく彩色された木像の獅子が何匹(おそらく4匹)も置かれていた。これにより、改めて寺に置かれた獅子の役割を再認識した。
■仏教における獅子の霊力……獅子頭とは何か
仏教では獅子の頭には、霊力があり悪を食べてくれると信仰された。その思いは、今の都会では見ることの出来なくなった「獅子舞」となり各地で伝承されている。昭和30年代(1955〜1965)、大田区でも正月には獅子舞が見られたと記憶している。獅子舞の「口をパクパクと開ける」仕草は人を食べるのではなく、人に巣くう「悪」を食べる演技である。獅子の頭だけでも霊力があると考えられたので、多くの仏像にも彫られ、愛染明王の頭上にも獅子の首「獅子冠」が付いています。また「知」を司る菩薩文殊菩薩(もんじゅぼさつ)でも獅子に乗っています。神社建築でも獅子像は数多く飾られている、
■動物の霊力は「毛」にもあるとされる。
獅子の巻き毛は、特に強い霊力を持つと考えられて巻き毛の模様を「獅子毛」と呼ぶ。獅子の狛犬はカールが多く、犬の狛犬は軽いウエーブである。毛の表現はバリエーションが多く決まりはない。この表現は日本的獅子である狛犬になっても受け継がれており、江戸時代の狛犬に数多くのバリエーションが見られる。
古い獅子像は、左右対称の同じ形をしており口を開けた獅子像である。宮中の年中儀式や制度を定めた『延喜式』(平安中期)には、想像上の動物「じ」が目出度い動物として記載されている。これが狛犬に直接つながる祖先であると言われる。「じ」は牛に似た灰色がかった黒い動物と言われ、角が一本あると言われた。平安時代に獅子は「唐獅子」の姿になり、狛犬は「じ」の姿を描いていたように想像されると伝わる。古来、獅子と狛犬は別の動物であったのである。
また、獅子と区別するために、狛犬には頭に角(一角)がある。邪気を払うためだと思われるが、初期の角は長くたくましい。時代が下がるにつれ短く、ついには痕跡を残すのみとなった。それは狛犬の姿が獅子化していったと同じくしている。姿の区別がなくなり、「口を開けた狛犬阿像」と「口を閉じた獅子吽像」となっていった。初期の頃には「獅子・狛犬」と呼ばれていたが、単に狛犬と呼ばれるようになった。龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田)には角の長い初期の狛犬がいる。
■『日光東照宮に唐獅子は129体存在する』『角や牙はない、鼻はいわゆる「獅子鼻」、首や脚は短く、胴体は虎よりは少し太め、足は猛獣型で爪を持ち、襟足の体毛は渦を巻き、尾は火炎状である』
日光東照宮の神職高藤春俊氏はその著書(『日光東照宮の謎』講談社新書 1996年刊)で「唐獅子」の特徴を上記のように述べている。日光東照宮の江戸初期、三代家光の頃である。
家光の頃は、寺社は幕府の作事(建設)であり、狛犬なども勝手に造ることは出来なかった。
(注)狛犬は仏教の伝来と共に伝来。平安時代には「木彫りの狛犬」が多くみられる。「石造りの狛犬」は鎌倉時代からである。これ以外にも「陶器製の狛犬」「金属製の狛犬」があるが、私が調べて撮影しているのは、大田区の「石造り狛犬」だけである。次のページに石造り狛犬の歴史があります。また、東京都で一番古いのは目黒不動尊の狛犬で江戸承久三年(1654)の年号である。
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