明治20年代(1887) から隆盛を始めた穴守稲荷神社とその周辺


穴守稲荷の始まり(江戸時代)
 江戸時代には堤防を守る素朴とも言うべき稲荷から始まり、五穀豊穣など農業信仰となった。しかし明治維新で国家神道になると、稲荷社も神道への対応を求められた。穴守稲荷も参拝の人が増えていたため、明治18年(1819)に地元の有志が土地の振興策として「公衆参拝」の申請を政府に願い出た。許可がおり、社殿を新築してから、徐々に現世利益を求める神社として繁栄していった。きっかけになったのは、「穴守」と言う意味が「女性の病気」を守るという解釈がなされたため「花柳界、遊郭」の人々に強く信仰されたからである。

『 私がものごころついた時には、多摩川支流の海老取川にかかる稲荷橋には花柳界の人たちが寄進した鳥居が一キロ以上もびっしりと並んで、橋を渡って穴守稲荷までは、雨の日でも傘がいらないほどだった。』著者が子供の頃、昭和初期の頃の話である。(『我が海、我が町 羽田魚師の今昔』伊東嘉一郎著 (株)心泉社発行、

当時の遊園地化していく穴守稲荷神社周辺の様子がよく分かる。
明治27年(1894)に和泉茂八氏が、稲森稲荷側に鉱泉(森ケ崎鉱泉)を発見した。明治35年(1902)京浜電鉄は京浜蒲田から海老取川の稲荷橋まで穴守線を開通させた。参拝者が増えるに従い、穴守稲荷神社も社務所、水行場(水泳場)も併設された。
  大正2年(1913)には、神社の前まで電車が入った。また、稲荷山という人造築山や庭園もつくられ、「胎内くぐり」や山岳信仰も対象となっていった。上の地図は大正14年(1925)頃の地図である


明治40年代には、羽田村北西部には競馬場、水泳場、海水浴場。その他、娯楽施設が出来た。地図の緑色の濃い部分が穴守稲荷神社である。併設された運動場は、学校や会社につかわれ、オリンピック選考競技にも使われた。運動場隣には、ゴルフ場、オートレース、自転車競技場など当時最先端の施設があった。また、黒田家の鴨猟場もあり、庶民が一日中楽しめる行楽地として発達した。また、船便として大森と森ケ崎・穴守を往来する乗合船も4隻、大師河原と羽田猟師村を結ぶ早舟も18隻と穴守稲荷神社は便利な行楽地として好況であった。

昭和4年(1929)官営の民間飛行学校が出来る。昭和5年(1930)に国営の民間飛行場が出来た。その後、羽田飛行場として進化してゆくのである。

昭和6年(1931)京浜電鉄の運動場は、民間飛行場に徐々に姿を変えていく。昭和7年(1932)には競馬場も出来た。羽田は時代と共に時代を先取りした形で変貌していった。昭和20年代(1954)の地図を見ると、上の地図上部が埋め立てられ羽田飛行場がつくられている。

穴守稲荷神社は、各地に信仰を支える参詣者が講をつくり隆盛を遂げていくのである。資料によれば370講を数えたという。流行神(はやりかみ)としての傾向が強く、御神水講(鉱泉を神泉とする)、花柳界の講社などが出来たという。しかし、日中戦争が始まる暗い時代になると、穴守稲荷神社周辺は娯楽的施設の急速な衰退を迎えた。このあたりは軍需産業地帯として工場に働く労働者のためとして変貌していった。太平洋(第二次世界大戦)戦争中は社務所が爆弾で破壊され、一時は閉鎖された。

強制疎開させられた羽田の住民
  戦後、昭和20(1945)年9月、突然、進駐軍(占領軍)の命令により海老取川の以東すべてを接収された。此の地に住んでいた住民は、強制的に48時間以内の立ち退きを命じられたのである。多くの人は親戚・知人をたよって着の身着のまま急いで引っ越した。この時、羽田神社の鳥居は取り残されて、後々まで羽田飛行場入り口の目印となった。


 昭和の大森を描い、川瀬巴水と高橋松亭の現代版画
 
昭和40年代の羽田沖、潮干狩り

私が小学校低学年の頃、羽田沖には潮干狩りの場所があった、名前は忘れたが、海岸沿いにヘルスセンターがあり、そこで料金を払い潮干狩りを楽しんだ。都立中央図書館所蔵 

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