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浮世絵は歌川広重・東海道五十三次の始め、日本橋の大名行列、出発の風景である。
●参勤交代制度は、大名の権力者への顔色伺的な行為から始まったが、三代家光の『大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり、毎年夏四月中参勤致すべし』との命により制度となった(寛永12年(1635)。
参勤交代はこのように始まったが、参勤に関する費用は莫大で藩の財政を圧迫させたが、格式を重んじる武家社会は面子で意地を張り、できうる限り格式を守ろうとした。幕府は早くから参勤交代の人数を減らすように命じたが、従う大名は少なかった。江戸の大名屋敷と参勤交代の費用で藩財政の7割以上を占めるに至ったのである。そのようなマイナス面もあったが、参勤交代は諸国の特産物を広めるのに役立った。また、文化面では学問好きとも言うべき殿様が生まれた。本草学、鳥類、動物などの学問が殿様から広まった。これらは後で紹介する。
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●大名行列は日本全国の庶民にとって、見慣れた風景であった。特に、東海道や北国街道など江戸間近の街道は、大名の石高に応じて本陣を譲る、大名の意地がぶつかる参勤交代の街道であった。関宿は古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。浮世絵は到着の風景ではなく、出発の風景であるとの説もある。
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●上の浮世絵は、歌川広重の「東海道五十三次」(東京国立博物館所蔵)である、宿場本陣に大名行列が到着したところ、殿様が乗る駕籠は式台に上がり、槍は立てかけられている、槍は一本なので小大名であろう。右には大名家の名前を記した立て札。中央には挨拶に訪れた町役が描かれている、提灯や幔幕には大名家の家紋がある。大名行列は格式を重んじ、格式により本陣が決められた。大名の宿場がかち合った時には、石高が上の大名に宿を明け渡せねばならなかった。川止めなどで大名行列がかち合うと、小大名は止まらずに夜通し歩いて通過した事もあったようだ。
●槍は大名の格式を決める大事な道具である。将軍家のみが5本の槍をたてることをゆるされ、御三家は4本槍、次に3本槍は薩摩の島津家、仙台の伊達家、後に越前福井の松平家、細川家、毛利家、佐竹家、黒田家、鍋島家と僅かでした、2本槍は三万石以上の大名・外様の大大名前田家は遠慮して2本槍でした。大部分3万石以下の大名は1本槍しか立てられなかった。
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江戸時代、江戸参府(参勤交代)の大名行列は川をどのように渡ったのか |
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●江戸時代、約260年間のほとんど期間を大名は一年交替で藩と江戸の間を往復した。参勤交代の義務である、石高に準じた格式で大名行列を組んで江戸を目指した、参勤交代の大名にとって、大名行列は徳川幕府に忠誠を示す行動であったが、参勤交代にかかる費用は馬鹿にならず、江戸滞在の費用と合わせると藩財政の半分以上を占めた。
大名行列が軍事行動を意識したため、各種の武器(弓・鉄砲・槍)を携えた、また藩主のための生活用具(風呂・トイレなど)も運んだ、大名行列は大名同士の見栄の張り合いと言う面が見られる。人数の多さや華麗なパフォーマンスなど大名の権威を示す行動であった。本国を立つときは各種の儀式があり、江戸入府の際には行列を再編成して石高の格式を誇った。旅の途中では簡略の服装で費用を切り詰めた、江戸入府を前に全員が正式の服装に着替えた。費用を切り詰めるため、奴など武士以外の人間は臨時雇いで行列を整えた。
江戸を目指す東海道の最後の渡しが「六郷渡し」である。東海道を上る148藩あまりが越えた渡しの様子はどのようなものであったか。渡しは関所の役割もある、六郷渡しはどうであったのか、資料はほとんどない。そこで錦絵・浮世絵など木版画で探って見てみよう。
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●外国人が記録した渡し風景
おそらく大井川の渡し風景を描いた銅版画である。E・バヤールが日本の浮世絵を見て描いたようだ。タイトルは「輦台渡し」となっている。左には大名家らしき駕籠を大勢で担いでいる。参勤交代で渡河にかかる費用は馬鹿にならず、出来うる限り徒渡し(歩いて渡る)で越えていた。↑『アンベール幕末日本図絵
上』高橋邦太郎訳 雄松堂書店刊 昭和44年(1969)
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●左の浮世絵は「E・バヤール」が参考にしたと思われる豊原国周の「大井川徒行渡図」万延元年(1860)大判3枚揃へ。他にもいくつかの浮世絵を組み合わせたと思われる。
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●費用がかかる大名行列の川渡し(渡河)のいろいろ
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■徒(かち)渡し……歩いて渡る、色々な方法があり、流されないように人頭大の石を懐に入れゆっくりと渡る。先頭の川越人足が6メートルほどの竹竿を持ち、旅人はそれにつかまりながら渡る。
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■徒渡し2……川越人足の肩にまたがり渡る。これも一種の徒渡しであろう。蓮台に乗り人足が担いで渡る。蓮台にも種類があり、上の浮世絵のように掴まる桟が「ある・なし」があった。駕篭のまま乗せるスタイルもあった。
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■大名行列の徒渡し……流れを緩やかにするため川の上流に船や人間を並べた。他の例では、船を3艘縦に繋いで川中に置き、川の上下に人足100人を横に並べ水流を弱めた。その中を渡るのである。色々なやり方があったようだ。
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■舟渡し……渡し場の船を借り上げ、部隊ごとに順番に渡した、船の大きさは長さ13メートル、幅3メートルほどであり、乗ることの出来たのは人・30人、馬・三頭である。時間を短縮するため渡し場以外の船も借上たようだ。船は対岸に綱を渡し両岸で綱を保持して、船に乗った船頭が綱をたぐり渡ったようだ。また、船頭が竿をさして渡った、すべて川の流れや深さによって違ったやり方になった。
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■船橋……船を横に並べ板を渡して歩いて渡った。日本中の川で色々なスタイルがあった。 (船橋のページ参照)
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