《大坊坂途中にある江戸の花火師・鍵屋一族の墓

「名所江戸百景 両国花火」歌川広重 
版元・魚栄(魚屋栄吉) 安政5年(1858)



大坊坂   鍵屋の墓
↑●本行寺から大堂へ向かう坂道が大坊坂である。此経難持坂がないときはこの坂が主要な道であった。上の写真は鍵屋の墓である。上から最初の踊り場(右側)に面している。

《鍵屋の墓と両国橋花火の歴史と錦絵 昔の花火は一色》
鍵屋初代弥兵衛は、奈良県吉野郡篠原の出身である。万治2年(1659)に江戸に出てきた。彼は神田横山町に店を構えた。おそらく店を出す前のことであろうが、葦に星(花火)を入れたおもちゃ花火が人気となり、屋号「鍵屋」を出すことになる。正徳5年(1715)には、煙や炎を出すだけの花火から打ちあげ花火(打揚)を造り上げた。享保2年(1717)の水神祭りには献上花火を打ち上げている。
文化7年(1810)鍵屋の番頭清七が暖簾分けで「玉屋」が生まれた。これ以後、両国橋を境に上流側を鍵屋が、下流側を玉屋が打ち上げる慣習が生まれた。この頃の花火は、浮世絵にあるように硝石、硫黄、木炭を原料としていたので花火の色は橙色である。現在のようなカラフルな花火になったのは、明治維新以後、明治8年(1875)に外国より様々な発色剤が輸入されてからである。前の花火を和火、新しいものを洋火という。
天保14年(1843)4月17日、玉屋は失火によって全焼してしまい、町内を半分ほど焼いてしまった。江戸時代には出火は重罪であり、悪いことに将軍家が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸処払いの罪になり追われてしまった。それ以後、両国の花火は鍵屋だけが受け持った。
鍵屋は世襲で12代まで続いたが、昭和40年(1965)、12代鍵屋弥兵衛が天野道夫氏に宗家鍵屋を譲った。現在、東京都江戸川区に「宗家花火鍵屋」はある。13代天野太道氏の時に花火の製造をやめ、打ちあげ専門業者となった。現在の当主は、天野安喜子氏であり、初めての女性である。(2010年現在)

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