昆虫、動物、植物とあらゆるものの図譜を創った肥後熊本藩藩主 細川重賢


細川重賢(ほそかわ しげかた)の図譜について

 
熊本藩五十四万石藩主・細川重賢(1720〜1785)は、わずか28才で藩主になり苦労して藩財政を回復させた。彼は生まれついての博物好きであったようで、あらゆる物に興味を示した。鳥・昆虫から動植物まで図譜を創った。独創的な試みも多く、昆虫の飼育記録や押し花標本など、当時の最先端をいくものであった。虫を描いた『昆虫胥化図(しょかず)』(1722年頃)、『虫類生写(いきうつし)』(1766年)、『虫豸帖(ちゅうちちょう)』がある。虫の図譜は他の絵から比べると稚拙であり、この図譜の作者は不明だが、一説には細川重賢本人ではないかと言われている。
 
「モンシロチョウ」は日本で見られる普通の蝶であるが、外国から輸入された帰化昆虫である、有名な円山応挙の写生したモンシロチョウがある。明和7年(1770年)。細川重賢の虫譜「昆虫胥化図」(こんちゅうしょけず)には、モンシロチョウが三カ所に画がかれており、この絵(1760年頃)が最古である。
 
 昆虫以外では『毛介綺煥(きかん)』一帖、『群禽之図』一冊、『游禽図』一巻、『珍禽奇獣図』一帖がある。『毛介綺煥』はオオカミの図に各部計測を記載しており貴重である。このオオカミは宝暦八年(1758)二月、肥後の国(現・熊本)下名連石村で捕獲された雌オオカミである。

 細川重賢は植物にも関心が高く、おそらく日本で初めての「押し葉」標本である『押葉帖』一冊をつくる。『三千之枝折』五冊などがある。『鳥類図譜』は鳥類図鑑で狩野家の探春や純信が見事な写生23点が掲載されている。
熊本藩御用絵師について
  狩野探春守徳(天保頃)、鍛冶橋狩野家・探信守政に連なる鶴沢派・鶴沢探山から五代目であろう。純信はおそらく探春守徳の弟子ではないであろうか。また、昆虫や植物を絵がいたのは、熊本藩藩士・三井弥作、下山貞平、狩野派絵師・狩野朴仙である。

狩野朴仙恩信について…1
 
狩野朴仙は肥後熊本藩のお抱え絵師である。熊本藩には、雪舟の流れの矢野派と江戸の流れを汲む狩野家のニ家の絵師がいた。狩野家初代は狩野成信(1675年没)であり、朴仙は六代目狩野恩信で、号は朴仙である。彼は、江戸木挽町狩野家六代目・栄川院典信に学んでいる。(参考「別冊太陽 狩野派決定版」平凡社 2012年刊)

狩野朴仙恩信について
…2
 肥後熊本藩には、狩野家を名乗る絵師の一家があります。丹州桑田郡窪田城城主・三輪秀久丹波守が祖であり、四代目窪田助之進が江戸狩野派の宗心種永(1568〜1620)に学び、初代狩野成信(しげのぶ)と成ります。その後、二代から五代と全て木挽町狩野家に学び、江戸藩邸で藩絵師の御用を勤めました。六代狩野恩信(あきのぶ)が木挽町狩野家六代目栄川院典信(えいせいいんみちのぶ)に学び、画号朴仙を名乗り、藩主細川重賢の図譜制作の描いたという説がありますが、どうも、これは少し間違いでないかと思います、何故なら細川重賢が死亡したのは天明五年(1785)であり、朴仙恩信が藩絵師についたのが天明六年(1786)であろうと考えられるのです。
  実際に細川重賢から画を命ぜられたのは、四代狩野幸信(ゆきのぶ)ではないか。五代狩野勝信は若く寛延二年(1749)に死亡しているのであまり描いていないと考えられる。幸信は画歴六十七年の長きにわたり、死亡三年前の宝暦八年(1758)に六代目狩野朴仙恩信が稽古扶持(二人扶持)を頂いている。安心したように狩野幸信は宝暦十一年(1761)に死亡している。以後、細川重賢の没する23年間の長きにわたり朴仙は仕えた。しかし、一人前の藩絵師にはまだまだ修行の期間が必要であった。その証左になると思うのが、『鳥類図譜は狩野派の探春や純信などに写生させた優品で、二十三種の鳥が見事に描かれている。』(『科学朝日編 殿様生物学の系譜』朝日選書421 朝日新聞社 1991年刊)とある、

  探春は、狩野探幽の高弟である鶴沢深山(鶴沢派)の門下である、活躍したのは天保頃である。純信の詳細はよく分からない、探春の弟子筋であろうか。 狩野朴仙恩信が藩絵師を命じられたのは、宝暦十二年(1762)であろう。

藩絵師は命じられた画には、落款などを入れることは許されなかった。このことが、狩野派の絵師が図譜制作に深く関与している思われるのに、そのことの証明確認を困難にしている。

狩野探幽の四天王
 狩野探幽の高弟に四天王と呼ばれた四人がいる、鶴沢探山 (1658〜1729)、久隅守景(寛永から元禄頃)、桃田柳栄(1647〜1698)、神足常庵(不明)である。



「筑紫ガモ国立国会図書館蔵

「うとう」国立国会図書館蔵
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