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●鎌倉幕府の設立年代には、代表的な三つの説がある 1. 1183年設立説…………『文治の勅許』による 寿永二年(1183)に宣旨が出された。内容は「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は、国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」である、つまり頼朝が東国(奥州)の荘園・公領などの収入を保証するならば、頼朝の東国支配権を認めると言うものである。 『これにより、 頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。 この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、頼朝の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったと見方がある。本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は朝廷協調路線に舵を切り、挙兵以来からあった東国独立論は影を潜めた。』(参照『武力による政治の誕生』本郷和人著 講談社 2010年刊) 私も、この時点での鎌倉幕府設立は早く、頼朝も幕府を開いたとは思っていない、この時は平氏もおり、源義仲も健在である。頼朝の命により義経が義仲の討伐に向かう時期である。 |
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2. 1185年設立説………現在主流の説 |
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3. 1192年、又は1190年の設立………従来の教科書 頼朝の将軍就任。これにより全国の武士の軍事指揮権を与えられる、従来の「いい国作ろう鎌倉幕府」である、又は奥州合戦をした1190年の設立とする。 ●文治五年(1190)六月卅日、奥州征伐。景能に意見を聞く。 朝廷に奥州追討の宣旨を求めたが返事がないまま、6月末に大庭平太郎景能(古老)に「宣旨がまだ無い事」を相談する。すると古老は曰く、 『軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるるの上は、あながちにその左右を待たしめたまふべからず。随つて泰衡は累代御家人の遺跡(ゆいせき)を受け継ぐ者なり。綸旨(りんし)を下されずといえども、治罰を加へたまはんこと何事かあらんや。』(『全訳 吾妻鏡 第二巻』訳注者 貴志正造 新人物往来社発行 昭和51年刊) 自分の家来(平泉)を誅するのに天子の許可は必要ない、すでに軍勢を集めているのに、待つのは皆に動揺を与えると頼朝の決断を促した。頼朝も決断して奥州追討軍の部署(吾妻鏡)を定め進軍を命じる。 私もこの説(1190年)に賛成である。源頼朝はすでに朝廷と対等であり気を遣う必要はない。上手くつきあうだけである。荘園を奪うなどの事で争う必要を認めなかった。頼朝が目指したのは政権交代で天皇になるのでなく、自分も貴族として別政権を樹立することであった。平清盛の福原政権が何故失敗したかを参考にしたと言われる。 また、この平清盛政権を武家政権の初めとする説もある。 | |
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