マルコポーロが行きたいと夢見た黄金の国ジャパン 奥州藤原氏の平泉

 
源頼朝が奥州に攻め入ったとき、記録係を大勢連れて行ったと言われる。「戦目付(いくさめつけ)」の詳細な戦闘記録は後の論功行賞に必要な記録であり、頼朝の権力の基盤である。また、藤原基衡は嘉勝寺(かしょうじ)も建立し、二つの寺建立に莫大な財力を傾けたという。

願成就院(がんじょうじゅいん)
静岡県伊豆の国市にある、願成就院は、正式名称を「天守君山願成就院」(てんしゅくんざんがんじょうじゅいん)とされ、本尊・阿彌陀如来坐像を安置する、真言宗の寺院。源頼朝の戦勝を祈願した北条時政により、1189年(文治5年)に創建されました。 願成就院は北条時政が建立した寺院ですが、それ以降も3代にわたって堂塔の建立が行われています。 北条時政:大御堂、南塔「北条義時」(ほうじょうよしとき):「南新御堂」「北条泰時」(ほうじょうやすとき):「北条御堂」、「北塔」を建立した。

願成就院の毘沙門天像(1186年、運慶作)
 
阿弥陀如来を御本尊とするとする高野山真言宗の寺。 創建は、鎌倉時代初頭の1189年(文治5年)に遡ります。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権で北條政子の父、北條時政公が建立し「願成就院」と称したことが始まりです。歴史書である「吾妻鏡」によると、時政公が建立した大御堂と南塔、二代執権北條義時公が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北條泰時公による北條御堂と北塔の建立など、堂塔伽藍の営作は北條氏三代にわたります。
そして、1222年(貞応元年)には、「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷よりくだされており、この地に守山を借景として、中之島のある大きな池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が北條氏の氏寺として造営されました。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、1973年(昭和48年)に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「旧願成就院跡」として国指定史跡になっています。河内源氏源頼義・義家以来の宿意「河内源氏は奥州を手に入れる」は代々受け継がれ、益々強くなり、源頼朝に受け継がれて、ついに奥州合戦になった。奥州合戦詳細 

写真は仏師・運慶(平安時代末期から鎌倉時代初期 )源頼朝が平泉を模した鎌倉の寺院  

補陀洛山 六波羅蜜寺
西国十七番札所霊場都七福神の一・巳成金弁財天・木造空也上人立像 運慶の四男である康勝の作

『本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。』(補陀洛山 六波羅蜜寺の説明文)

「日々是古仏愛好」のブログ版 こぼれ話〜古写真を読み解 G:見つかった古写真から明らかになった「藤田美術館・空也上人像」の原所在 【2022.07.10】を紹介 古写真から明らかにされる空也像の驚き。


『東方見聞録』が紹介する黄金の国ジパング(ジャパン)
 同書でマルコポーロは、 日本を黄金の国と紹介している。
『チパングは、東の方、大陸(中国)から1500マイルにある大きな島である。この国では黄金が至る所で産出するらしく、皆黄金を持っている。国王をいただき平和な国である。大陸との交易がないため黄金が持ち出されたという事はない』
これは交易のあった中国人あたりからの伝聞ではないか。黄金の国を信じたコロンブスは、その国を探しに航海に出てアメリカ大陸を発見した。
黄金の国ジパングは平泉の事であろうという。

鎌倉扉目次