マルコポーロが行きたいと夢見た黄金の国ジャパン


奥州藤原氏初代・清原が建立した中尊寺、三代基衡の毛越寺建立は莫大な財力使い、都人を驚かせた。 (『吾妻鏡』文治五年(1189)9月の毛越寺の記事から)  平泉に着いた頼朝はその文化の高さに驚いた。当時の日本で京都の寺院に匹敵する寺院や仏像を有するのは平泉だけであり、都に匹敵する文化を持つのは平泉だけであった。
 

『堂塔四十余字、禅房五百余字也。基衡建立する。先ず金堂は円隆寺と号す。金銀を鏤め、、紫檀赤木等を継ぎ、万宝交衆の色を尽くす。本仏に薬師如来丈六、同じく十二神将像を案ずる、(雲慶これを作る、仏菩薩に玉を以てって入眼の事、この時初めての例なり)』(岩波新書シリーズ日本中世史 1.『中世社会のはじまり』五味文彦著 岩波書店 2016年刊)とある。
源頼朝が奥州に攻め入ったとき、記録係を大勢連れて行ったと言われる。「戦目付(いくさめつけ)」の詳細な戦闘記録は後の論功行賞に必要な記録であり、頼朝の権力の基盤である。この記事はその時の記録かも知れない。また、基衡は嘉勝寺(かしょうじ)も建立し、二つの寺建立に莫大な財力を傾けたという。

仏師雲慶(生没不詳)に 円隆寺本尊造立の支度(費用)として藤原基衡が送った品々とは…

願成就院の毘沙門天像(1186年、運慶作)

『円金百両・鷲羽百尻・七間中径の水豹あざらし皮六十枚・安達絹千疋・希婦の細布二千反・糠部の駿馬五十疋・白布三千反・信夫毛地摺千反』などの他に山海の珍味を送ったという。完成するまでの三年間、平泉から京都まで東山道・東海道はこれらを運ぶ荷馬で賑わったという。すさまじいばかりの贈物である。雲慶の驚きが判るようである。その上に「練絹が欲しい」という雲慶の戯れに、舟三艘に積まれた練絹が届けられたという。
  この話は都でも話題になり、鳥羽院の耳に入り、出来上がった仏像を見た鳥羽院は「仏像を平泉に送ってはならぬ」と命じた。驚いた基衡は仏像を送ってもらうため、莫大な金子を朝廷の有力者に使い、ようやく手に入れることが出来た。
(注)
『吾妻鏡』文治五年(1189)9月17日(岩波新書シリーズ日本中世史 1.『中世社会のはじまり』五味文彦著 岩波書店 2016年刊)
 この雲慶は我々が教科書で知る運慶 (1224年〜不明)ではない、平安時代中期から末期頃の仏師であり、運慶派の先達である。

河内源氏源頼義・義家以来の宿意「河内源氏は奥州を手に入れる」は代々受け継がれ、益々強くなり、源頼朝に受け継がれて、ついに奥州合戦になった。奥州合戦詳細 
イラストは仏師・運慶(平安時代末期から鎌倉時代初期 )

図は毛越寺庭園と観自在王院庭園(平泉遺跡調査会・平泉町教育委員会)拡大表示 

源頼朝が平泉を模した鎌倉の寺院
 


『東方見聞録』が紹介する黄金の国ジパング(ジャパン)
 同書でマルコポーロは、 日本を黄金の国と紹介している。
『チパングは、東の方、大陸(中国)から1500マイルにある大きな島である。この国では黄金が至る所で産出するらしく、皆黄金を持っている。国王をいただき平和な国である。大陸との交易がないため黄金が持ち出されたという事はない』
これは交易のあった中国人あたりからの伝聞ではないか。黄金の国を信じたコロンブスは、その国を探しに航海に出てアメリカ大陸を発見した。
黄金の国ジパングは平泉の事であろうという。

 平泉の栄華を支えた4ヶ所の金山(黄金を産出する鉱山)

1ー玉山金山 (現・岩手県陸前高田市竹駒町)
 玉山金山は、ペグマタイトと言われる大きな結晶の御影石が産出し、この中に金が含まれている。およそ4億年前に溶岩がゆっくりと冷えて出来上がった鉱物である。この金山の歴史は古く、奈良時代に聖武天皇の大仏建立に黄金を送ったと記録されています。伝承では、平泉に黄金を探しに行った行基が疲れて道端で昼寝をしていると、弁財天が夢に現れて「玉山に黄金が産出する」と告げてからと言われています。 平安時代、藤原三代の寺院建立でも玉山の金が使われ、滅亡後は鎌倉幕府の支配下になり、戦国時代は秀吉に、江戸時代は伊達家の支配となりました。黄金の産出する所は水晶も産出すると言われ、現在も水晶は産出する。
明治になり政府の管理となったが、金を産出し、玉山金山を含む金山は当時の時価で40億の価値があったと言われ、そのため日露戦争では戦費調達の担保として使われた、この時、産出量は誇大に見積もられたと考える。

2大ヶ生おおがゆ金山 (現・岩手県盛岡市)
 源頼朝の奥州攻めの際、このあたりに領地を与えられた河村秀清(治承元年=1177年生まれ、没年不詳)の子孫が採掘していたといわれているので、鎌倉時代には発見されていたと思われます。 いつしか忘れられていたのですが、明治になって再び発見され、何回かの経営者変遷を経て金鉱脈が見つかりました。 最盛期には年間80kgほど金が出て言われたが、第二次世界大戦に戦争激化の人手不足ため、閉山され坑道は湧き水によって水没したと言われています。

3大葛おおくぞ鉱山 (現・秋田県大館市)
 伝説によれば、発見は和銅元年(708年)。東大寺の仏像や、金閣寺造営の際にも献金したといわれています。東大寺大仏建立にはよく言われ、後の伝承の事があります。
代々支配人を務めていた荒谷家の記録では、大永元年(1521)頃に発見されたことになっているが、これは荒谷家がこの役目についた年か、もともとあったのとは違う鉱脈が見つかったということでしょうか。 戦国時代にも採掘が行われ、佐竹家が秋田にやってきてからは、金山の発展が奨励されました。しかし、南部藩との境界争いの元にもなっています。 ピーク時は年間44kgの金を算出していたそうですが、地下資源はいずれ尽きるもの。1975年に閉山した。

4大谷おおや鉱山 (現・宮城県気仙沼市)
 前九年の役の前から金が出ていたといわれている古い金山で、これまた平泉の黄金文化を支えたとされています。これらの金山が奥州藤原氏の栄華の基になりました。 その後も長く採掘が行われており、戦時中には従業員1300人、年間1トンもの金を産出していたという大きな鉱山でした。
戦後再び操業し、20年ほどは採掘されていたようです。ただし、再開後の産金量は年間400〜450kgと、かなり落ちてしまいました。1976年に閉山し、現在は付近に工場や歴史資料館が建てられています。
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