ポルトガル海洋帝国


《カプラルの武力による侵略》
ヴァスコダ・ダ・ガマの報告により、 香辛料交易を独占 するために回教徒を武力で制圧することにした。 これ以後15年に渡る覇権の戦いが行われることになる。

〈カプラルの第二次インド航海
  1500年3月8日、青年貴族ペドロ・アルバレス・カブラル(1467-1520年)がインドに向けて出帆した。艦隊は13隻で、そのうち11隻は新しく王室が建造した船である。8名のフランシスコ会修道僧、9名の司祭と大司祭を含む1200人が乗り込み、船はすべて舷側砲で武装していた。

 1500年4月23日、南アメリカ大陸ブラジルを発見、上陸した。南大西洋を横断してインドを目指す。およそ6ヶ月後の八月末にゴアに近いアンジェディヴァに到着した。この航海の所要日数は、長い間帆船の標準タイムとなった。

 カリカッタでは、土地のサムリと交渉したが、いざこざからアラビア船10隻を焼き払い、カリカッタの町を砲撃で瓦礫の山とした。コチンに移動した艦隊は船一杯の、香料などを積み込み、ポルトガルに向けて帰国の途に着いた。途中で嵐に巻き込まれたディオゴ・ディアスの船は偶然にマダガスカル島を発見した。

 1年3カ月のち、貴重な香辛料をのせて帰国した。すぐに香辛料はアントワープに運び込まれヨーロッパ中を驚かせた。ドイツやイタリアの金融業者がリスボアに集まり始めた。このときから、ヴェネツアの没落が始まったのである。
カプラルの航海の意義は、ブラジルを発見したことで、将来のポルトガルを支えることになる。インドではカレクトと対立したがコチンとは友好関係を結べた、この地を足がかりにしてポルトガルは交易を始めることとなった。


アルファンソ・デ・
アルプケルケ


武力による侵略、ガマの第二次インド航海〉
  ポルトガル王マヌエル(1469-1521年)は、カリカッタの商館がサムリに襲撃された報復に大艦隊を派遣することに決めた。ガマを『インドの提督』に任命して、その指揮下に15隻を先発させ、5隻の後発を出帆させた。 カリカッタでのガマの攻撃は凄まじく、言葉では言えない蛮行があったという。コチンとカナールに商館を築き、艦隊の一部を残したのち、香辛料をたくさん積んで帰国した。 ポルトガル王マヌエルはインドを統治をより強くするために、有能な総督を送り出した。アルファンソ・デ・アルプケルケとフランシスコ・アルメイダである。
この二人によって海洋帝国ポルトガルの基礎が作られたのである。 1503年、アルファンソ・デ・アルプケルケはコチンに向かい城塞を築いた。宿敵サムリも城塞との戦いで戦死した。回教徒の船も追い散らかしたのである。 またアルメイダも、1505年アフリカのソファラ、キルワ、モンパサを攻撃して要塞を築いた。

『1508年2月、アルメイダは遂にディウ沖で100隻の増援を得たエジプト艦隊を発見し、ネルソンが比較を絶した劣勢を物ともしなかったごとく、毅然と戦いを挑んで、この回教徒艦隊を殲滅した。』 (「大航海時代」ボイス・ペンローズ著 筑摩書房)
この戦い以後、インド洋は長期にわたりポルトガル王国の支配下におかれたのである。

 ポルトガル帝国の確立……武力による征服
インド洋の支配の次は、陸上の支配の確立である 。アルファンソ・デ・アルプケルケは、要塞を築くことによって陸の支配は出来ると考えた。彼はその目標として4箇所を選んだ、
マラッカ、ホルムーズ、アデン、ゴアである。1510年にゴアを、1511年にはマラッカを占拠した。アデンは彼の死後攻略された。アルファンソ・デ・アルプケルケこそポルトガル海洋帝国の基礎を築いた人物であり、それは次のことによって証明できる。ホルムーズ、マラッカ、ゴアの占拠と要塞化したこと。その支配を強化する、ソファラ、モザンピーク、キルワ、モンパサの拠点を造り上げたこと。ポルトガルへの宗主権を確立したことである。ここにポルトガルの植人地支配が完成した。

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