ー人類史上、恥ずべき蛮行の始まり、アフリカ大陸の奴隷貿易ー


1441年、エンリケ王子は二人の船長を派遣する。彼等は大胆にもアフリカ大陸に上陸して、原住人を奴隷としてポルトガルに連れて帰った。奴隷貿易の始まりである。エンリケ王子はこの事を容認し、むしろ異教徒をキリスト教で救うことだと考えていたらしい。発見されたアルギム湾は奴隷貿易で使われ、5年間で1000人ぐらいがポルトガルに送られた。ポルトガルの植民地にサトウキビのプランテーションが造られ、そこでの労働力が必要だったのである。カナリア諸島や西インド諸島は代表的な砂糖生産地となった。中世ヨーロッパでは砂糖も香料(スパイス)だったのである。(参照 モーリシャス島の砂糖
「奴隷狩りの風景……」
「世界のギャラリー」1729年刊、ポルトガル人による奴隷狩りの風景1551年にはリスボンの人口10万人のうち1割が黒人奴隷であったという。
「世界古地図」チャールズ・ブリッッカー(株)講談社


人間を狩る イラスト

エンリケ航海王子はこの成功により、今まで以上に価値ある、砂金、象牙、砂糖、動物の皮、胡椒(マラゲッタペッパー)をアフリカより得ることが出来たのである。財政の安定で探検を組織だって進められ、長期的な計画が立てられることになった。エンリケ王子は、この時代には珍しく近代的な指導者であったのだ。1460年、エンリケ王子死去。彼の夢はジョアン二世に引き継がれた。


喜望峰」の発見によるアフリカ航路の完成
 1487年、パルトロメウ・ディアスが3隻の船でアフリカ航路探検に乗り出した。彼等は偶然にもアフリカ大陸の最南端を越えてしまった。しかし、乗組員の恐怖から引き返すことになった。その帰国の航路で、彼等が越えた岬に「嵐の岬」と名ずけた。帰国後、国王ジョアンはディアスの功績に報い、インド航路の発見に希望を込めて「嵐の岬」を「喜望峰」(ケイプ・オブ・グッド・ポープ)と替えた。

教会が世界を二分したトルデリャス条約 (1494年)
  この条約は、カボ・ヴェルデ島370レグアから西の46度30分の経線(アゾレス諸島の西約1000マイル)で、それ以東をポルトガル領、以西をスペイン領とするものである。世界は2国に分けられたのだ。この条約を決めた教皇は、悪名高いボルジア家出身のスペイン人アレクサンドラ6世である。
法王でも、こんな重大なことを独断で決める権限はないと、他のカトリック諸国に大きな不満を残した。のちにオランダとイギリスがカトリックから離れていったのは、此処に原因があるという。また、この条約は異教徒の国を航海するときには、必ず聖職者を同行することが必要であると義務ずけた。船に乗る全員は、つとめて新しいカトリック教徒を獲得することを定めている。

この条約によって教会は『人は神の名の下に何でも出来るという』、恥ずべき免罪符を与えたことになった。つぎに、インド航路発見のヴァスコダ・ガマの登場である。


ボタンボタンボタン
トップに戻る  第1章 第3章  第4章