ピエール・ポワーヴルが丁字をモーリシャス諸島に持ち込んだ。


この時から、マスカリン諸島の植民地化とプランテーションが本格的に始まったのではないか。彼は、若いときにイギリスの捕虜になり、その後フランスに戻った、彼は極東での体験から二つのアイデアを持っていた。そのひとつが香辛料の木を手に入れて、それをマスカリン諸島に移植することであった。彼はフランス本国での政治的運動の結果、フランス王の全権大使に任命されてコーチンチャイナに戻ってきた。

スタヴォリヌス船長の記述によれば、ピエールは1750年代に、モルッカ諸島の無人島から19本の丁字の苗木を持ち出していたという。それらは1770年にフランス島(モーリシャス島の別名)、1772年にはブルボン島(レユニオン島)に植えられた。19本のうち枯れずに両島に持ち込まれたのは12本であつた。そのうち5本が新しい土地に根付いた。

別の説によれば、彼は1769年から1770年にかけて、オランダの支配地から香辛料の苗木や種を探すための探検隊を送り出したと言う。また1771年にも2度目の探検隊を派遣している。その結果、彼が所有している庭(モン・プレジール)には、400本のナツメグの木と70本の丁字の木が集まったという。その後、政治的抗争で、ピエールは苗木の世話をブルボン生まれの庭師ジョゼフ・ユベールに託して本国に帰ってしまった。


この地図は、フランス統治時期のフランス島(モーリシャス島)のフランス語地図である。うける印象も山が多く緑多い島であると感じる。『This map is also Plate 88 of Bonne's "Atlas Encyclopedique" 』(2 volumes, 1787-88)

本国での運動により、1775年3月フランス島のピエールの庭(モン・プレジール)は国王が買い取り王立植物園となった。1776年、ピエールはフランス島の総統として帰ってきた。その時には5本の苗木が生きていたが、その後4本が枯れてしまった。最後の1本が植づいてブルボン島(レユニオン島)の丁字の祖先となった。
その後、フランスは香辛料の栽培を西インド諸島とギアナに移すことにした。苗木はフランス島から運ばれた。今では香辛料の多くが南アメリカの高地で栽培されている。

これらの栽培をする大規模農園、すなわちプランテーションの農奴として大量の黒人が奴隷として必要だったのである。(参考写真  『モーリシャス紀行』を見てください。)



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