水晶宮の写真《水晶宮の炎上・焼失》
1936年、イギリスのシデナムにあった水晶宮が炎上、展示されていたドードー標本は焼失した。
この標本は、1851年に世界初のロンドン万国博覧会に出品されて賞を受けたものである。当時使われ始めた写真機で展示物は撮影された。古い本のドードー写真がそれであろうと考えている。
80数年にわたりロンドンの人々を楽しませたドードー標本の最後である。
水晶宮の歴史……イギリス栄光の時代、ビクトリア時代の幕開け、そのシンボルが水晶宮(クリスタル・パレス)である。

水晶宮が作られるまで、イギリスの社会状況はあまり良くはなかった。ビクトリア女王の誕生でドイツからアルバートを夫君として迎えたばかりである。ドイツ人である彼は国民から快く迎えられた訳ではなかった。イギリスは飢餓の40年とも言われる社会的不安の時であった。そのため、彼にも冷たい視線が向けられた。皮肉なことにアルバートによりロンドン万国博覧会は推進され、イギリス栄光のビクトリア時代が始まるのである。彼の不人気に気を病んだエリザベス女王が、前面に押し出したと言われる。そのシンボルが「クリスタル・パレス(水晶宮)」である。

 (参照『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』松村昌家著 リブロポート 1986年発行)


〈水晶宮誕生までの背景……〉
ロンドン万国博覧会は国の政策でも、貴族階級の支持があったわけではない。むしろドイツ人であるアルバート個人の努力で生まれたのである。フランスの博覧会成功に刺激を受けたイギリスの美術協会は、会長にアルバートを迎え博覧会を開催したいと考えたのである。彼を総裁にいただき広く国民から寄付を仰ぎ、わずか一年あまりで開催にこぎつけたのである。のちにロンドン万国博覧会の成功に刺激を受けたフランスは、パリ万国博覧会(1855年開催)を大規模に開催する。その時、エッフェル塔は万国博覧会のシンボルとして造られたである。


水晶宮のイラスト 水晶宮の内部イラスト

北の方向から見た翼廊(よくろう)、内部に楡の木を残したガラス張りの温室風景。これは、ルドルフ二世が創り上げたミューヘン王宮ではないか。水晶宮を設計したジョセフ・パクストンはミューヘン王宮を知っていたに違いない、もちろん100年以上前のことであり、実物をみたことはない。だが、その美しさは知られていたであろう。 
The Industry of All Nations, 1851: Illustrated Catalogue
(London: Bradbury and Evans, 1851, p. xiii)


 

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