日本に骨を埋めたお雇い外国人 エドアルド・キヨッソーネ



エドアルド・キヨッソーネ(1833〜1898)はイタリアジェノバ生まれで、1875年(明治8年)に明治政府大蔵省紙幣寮の招きで日本にやってきた。紙幣印刷の技術を日本に教えるためである。彫刻師で銅版画家として才能のあった彼により、日本の紙幣、切手、証券証書など本格的な印刷技術が日本に根付いたのである。 彼は紙幣や切手以外にも、明治天皇や西郷隆盛など明治の高官の肖像版画を制作したことでも知られている。特に明治天皇と西郷隆盛の肖像版画は、今でも我々が思い浮かべるイメージの元となっている。

 教科書にも載せられているため、西郷隆盛はあのような風貌であると人々の心の中に定着している。西郷隆盛の肖像画は、弟の西郷従道と大山巌の合成である。西郷の妻でさえ「顔が違う」と言っていたが、この絵により西郷のイメージは人々の間に定着してしまった。

 彼は「お雇い外国人」の中でもトップの高給であった。明治政府参議の大久保利通よりも高いのである、だから日本の美術品を買うことが出来たとも言える。   彼たちは仲間同士で勉強しあい、審美眼を高めていった。エドアルド・キヨッソーネはよほど日本が気に入ったらしく、1891年公職を退いたのちも東京に住み続けた。日本で死んだのは1898年(明治31)のことである、20年間の長き滞在であった。現在も墓は東京の青山墓地にある。
〈キヨッソーネ東洋美術館について〉
 彼は1万5000点にものぼる美術品を集めた。彼は多岐に渡る物を収集した。武器や武具、絵画や掛け軸、浮世絵(3227点)、挿絵本、陶磁器、漆器、仏像などである。これらの収集品は遺言により、イタリアの故郷、リグーリア地方美術館に寄贈され、後にジェノバ市に移管された。第二次世界大戦の戦火を逃れ、戦後1948年に美術館の建設が始まった。1971年に「キヨッソーネ東洋美術館」として開館した。


キヨッソーネ東洋美術館について
 
肉筆浮世絵は、菱川師宣、花房一蝶、喜夛川歌麿、奥村政信、葛飾北斎、鳥居清信、歌川広重などである。版画は3227点あり、歌麿、北斎、広重、豊国などを中心に江戸から明治におよぶ充実ぶりである。浮世絵のコレクションが充実している。右の写真は2001年に開かれたキヨッソーネ東洋美術館蔵浮世絵展に出品された北斎。行列東海道
  美術館の開館が遅れたために、あまり知られてはいないが浮世絵以外にも多岐に渡る美術品があり、すでに日本では見ることが出来ない逸品もある。
〈キヨッソーネの仕事〉
「小判切手」とは明治9年(1876)から、25年(1892)にかけて発行された。デザインも当時のヨーロッパで用いられたスタイルで、英文で日本の表記がある。


左は、「改造紙幣 神功皇后札 壱円券」(三種類造られた)で明治5年発行である。下は旧一円札(大黒札)である。


「キョッソーネ没後100年展」より

参考図書〉
「日本美術の流出」瀬木慎一著 駸々堂出版(株)1985年
「江戸美術の再発見」瀬木真一著 毎日新聞社 昭和52年発行
「近世美の架橋 」瀬木真一著 (株)美術公論社 昭和58年発行
詳しくは、「お雇い外国人キヨッソーネ研究」明治美術学会・(財)印刷局朝陽会編 の本があるが眼を通していない。

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